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まに (会話 | 投稿記録)
Sotetsuyama (会話 | 投稿記録)
m rv テスト投稿または悪戯
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**1887年、打者が投手に投球コースを指定できなくなった。5ボールで一塁へ。この年のみ5ボールは安打と記録され、4ストライクでアウトに。死球で一塁が与えられた。
**1889年、4ボールで一塁へ。
**1893年、投手と本塁の距離が50フィートから60フィート6インチに。( これは印刷やさんのミスによって 60,6フィートになった) 
 *守備について
**ノーバウンド捕球だけでなく、ワンバウンド捕球でも打者はアウトだった。
**1864年、ワンバウンド捕球=アウトが廃止され、ノーバウンドのときのみアウトとされた。
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明治期の[[俳人]]で、[[1889年]](明治22年)に[[喀血]]してやめるまで捕手として好んで野球をプレイした[[正岡子規]]が翻訳したという俗説があるが、これは間違いである。なぜなら、[[1896年]]新聞「日本」で連載した子規の随筆『松羅玉液』のなかで、「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と書いているからである。この俗説は子規が自らの幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いていたことが誤解されたものと考えられている。子規は「野球(のぼーる)」という雅号を[[1890年]](明治23年)に使い始めている。これは中馬が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前のことである。つまり、「野球」という表記を最初に使用したのは子規であるが、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬である。しかし子規は野球用語を数多く翻訳しており、[[2002年]]にはその功績によって[[野球殿堂 (日本)|日本野球殿堂]]入りを果たした。
のぼる君が自分の名前で考えたら野球。 野(の)球(ぼーる)になった。
 
== 脚注 ==