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都督は天皇に直隷し、所管師管内の防禦計画、所管師団の共同作戦を担当し、また所管師団の動員計画と軍事教育について指導を行った。都督は戦時の[[軍]][[司令部|司令官]]の役割をも担った。
 
[[1898年]](明治31年)年1月2日勅令第8号により都督部条例が改正され、都督は軍隊教育、都督部内の軍政・人事については[[陸軍大臣]]の区処を、防禦計画・動員計画は[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]の区処を受けることとなった。同年6月20日、西部都督部は[[福岡県]][[企救郡]][[小倉市|小倉町]]旧[[小倉城]]内に新築された庁舎に移転した<ref>『官報』第4495号、明治31年6月25日</ref>
 
[[1900年]](明治33年)4月25日勅令第156号より都督部条例が全面改正され、三つの都督部を東京に置き、[[教育総監]]の直隷下によって軍事教育の担当を除き、都督の所管を防禦計画と検閲と定めた。これにより、都督部を置く必要性が低下したため、[[1904年]](明治37年)1月14日勅令第4号により都督部条例が廃止され、この時に都督の職にあった者は[[軍事参議院|軍事参議官]]に発令された。
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* 谷山隆英 中佐:1899年6月27日 - 1900年7月23日
 
==脚注==
<references />
== 参考文献 ==
* 三浦裕史『近代日本軍制概説』信山社、2003年。