削除された内容 追加された内容
45行目:
武家町は江戸や大坂、京都などに武家屋敷が集中し形成された街並みである。特に江戸には数多くの武家屋敷が設置され、江戸の面積の約50パーセントが武家屋敷で占められていた。江戸時代以降、武家屋敷と共に武家町も消滅したが、現代では侍町を武家町と呼ぶことが多くなっている。
 
== 分類侍屋敷 ==
=== 侍屋敷の概要 ===
'''侍屋敷'''(さむらいやしき)は、武家に属さない中級・下級武士の住まう邸宅のことである。現代では本来の武家屋敷が殆ど消滅していることもあり、むしろ侍屋敷の方が武家屋敷と呼ばれることが多くなっている。ここでは現代における武家屋敷として侍屋敷を扱うが歴史的には武家屋敷と侍屋敷は異なるものであったことに注意が必要である。
51行目:
侍屋敷は主に城下や陣屋の周囲など主君の居所の周囲に形成され、この集中を侍町と呼ぶ。基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物が住み、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は藩主の居所の近隣や城内に住むことも多かった。一方、身分の低い侍は町屋に隣接した場所に住まうこともあり、中には町屋そのものに住む例もあった。また、侍屋敷の更に外側には足軽の屋敷(足軽屋敷)や長屋(足軽長屋)が置かれ、これらは防衛上の観点から城下の入口などに集中して建てられることが多かった。
 
=== 侍屋敷 ===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]までは武士の多くがそれぞれの領地に住んでおり、平時は農業に従事していたので、この時代の侍屋敷は[[名主]]屋敷(東日本)や[[庄屋]]屋敷(西日本)、或いは[[代官屋敷]]などと呼ばれている。近世になり[[兵農分離]]が行われると、[[城下町]]に侍屋敷が集められ、侍町が形成されるようになった。侍町の多くは[[城郭]]の防御を意識して三の丸や外郭内などに計画的に配置され、基本的には城に近いほど身分が高く城から離れるほど身分の低い者の屋敷が建てられていた。こうした侍屋敷はその武士が所有するものではなく仕える主人から与えられるもので、出世や降格などにより地位が変われば屋敷も相応のものに替えられ、主人が転封となればその屋敷は明け渡さなければならなかった。ただし、主に上級の武士は郊外などに個人的に別邸(下屋敷)を構えることもあった。陣屋においては敷地内に小規模な侍屋敷を構えて住まわせることもあった。重臣クラスの侍屋敷では[[土塀]]や[[長屋門]]、[[式台]]を構え、下級のものでも[[書院造]]の座敷を設けるなど、格式を示す意匠が施されていた。
 
また、江戸時代には、上級の[[社家]]、[[医者]]、[[忍者]]なども[[武士]]に準じる身分・格式とされ、屋敷の様式も、概ね武士の屋敷に準じるものである。
 
=== 足軽屋敷 ===
武士身分に含まれない([[士分]]を持たない)足軽の住まいは侍屋敷とは呼ばれず、'''足軽屋敷'''と呼ばれた。下級の足軽は屋敷ではなく長屋形式の住宅であったため、この長屋は'''足軽長屋'''と呼ばれる。現代においては足軽屋敷も武家屋敷と呼ぶことがある。 
 
=== 侍町 ===
103 ⟶ 99行目:
*[[社家]]
*[[小京都]]
 
=== 足軽屋敷 ===
武士身分に含まれない([[士分]]を持たない)足軽の住まいは侍屋敷とは呼ばれず、'''足軽屋敷'''と呼ばれた。下級の足軽は屋敷ではなく長屋形式の住宅であったため、この長屋は'''足軽長屋'''と呼ばれる。現代においては足軽屋敷も武家屋敷と呼ぶことがある。 
 
== 脚注 ==