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[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は、互いの国民を大量に動員し、大量に消費しあう戦争であった。生身の人間の貧弱な防御力と兵器の絶大な攻撃力、両者のあまりのアンバランスが、約500万人の犠牲者を生み出したのである。戦後、西部戦線参戦国ならばどの国にも例外なく厭戦感が蔓延していた。
 
[[古代ローマ帝国]]が広大な国境線を防御するために、長大な深陣地を構築して成功したように、構想自体はマジノが提唱する前から存在したが、「一定の間隔ごとに要塞群を配備すべきだ」とする要塞地帯委員長[[ジョゼフ・ジョフル|ジョフル]]元帥と、「連続した要塞線を構築すべきだ」とする陸軍最高顧問[[フィリップ・ペタン]]元帥との間に確執が生じ、妥協案として対ドイツ国境においてはペタンの案が、また対ベルギー・ルクセンブルク国境においてはジョフルの案が採用された。もっとも、対ベルギー国境部分に関しては、ドイツへの[[宣戦布告]]後に本格的な建造が始まったが、結局間に合わなかった。
 
[[1936年]]、幾多の曲折を経てマジノ線は竣工。総工費は約160億フラン、維持費・補強費として更に140億フランが投じられた。難攻不落を期待されたが、[[第二次世界大戦]]開戦後の[[1940年]]に、ドイツ軍はマジノ線を迂回し[[アルデンヌ]]奇襲により国境を超える。アルデンヌの森は自然の要害で、重砲や戦車は通れず行軍は不可能であるとフランス軍は判定していたため、要塞構想の範囲から全く外れていた。しかしアルデンヌから国内に雪崩れ込んだドイツ軍の前に、フランスは満足な抵抗もできぬまま敗北を喫するに至った([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]])。