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橄欖岩 (会話 | 投稿記録)
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'''パン猪狩'''(ぱん いがり、[[1916年]] - [[1986年]][[11月14日]])は[[日本]]の[[ボードビリアン]]、[[バンドマン]](ウッドベース)。本名:猪狩登。
 
[[日活]]の大道具、[[東宝]]舞台部などを経て浅草金龍館で初舞台。戦中は地方へのドサ周り、[[中国]]など慰問、戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]][[日劇ミュージックホール]]、地方のストリップ劇場等で活躍。
 
[[早野凡平]]や[[坂本新兵]]、[[世志凡太]]、寄席の色物でおなじみの[[ペペ桜井]]たちの[[師匠]]であり、東京コミックショーの[[ショパン猪狩]]の兄でもある。
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==日本の女子プロレスの原型を作る==
[[1948年]]、弟と一緒に[[三鷹市]]で小さな[[道場]]を開設。猪狩自身は[[柔道]]の経験が、弟は[[ボクシング]]と[[プロレス]]の[[セコンド]](日本国外で)の経験があることを生かし、妹の猪狩定子を含め7-8人の女性に[[格闘技]]を教えたことが日本の[[女子プロレス]]の始まりとする説がある。もっとも純粋な格闘技を標榜するものではなく、当初は進駐軍相手の舞台の合間に行うコミック・スポーツ・ショーとして考えていたものである。初興業は、京都大映で行い大当たりした一方、[[レスリング]]関係者からはクレームがついた。その際の猪狩は、女子プロレスの創設は[[八田一朗]]レスリング協会会長に相談した上でのものであり、猪狩定子は会長の手ほどきを受けているとの説明を行っているが真偽のほどは不明<ref>『ワイセツ物陳列罪だった時代』写楽1983年7月号p37</ref>。また、[[ガーター・マッチ]]は猪狩が考案したものである。
 
== 出演映画 ==