「ジョージ・ベスト」の版間の差分
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== 人物 ==
ベストはイギリスが生み出したサッカー選手の中で最も天賦の才を備えた選手であり、[[ペレ]]はベストについて「世界最高の選手」と評している<ref>[http://www.manutd.jp/ja-jp/PlayerAndStaff/LegendsLandingPage/George-Best.aspx マンチェスター・ユナイテッド公式サイト-レジェンドプロフィール:ジョージ ベスト]</ref>。ペレ、[[ヨハン・クライフ]]、[[ミシェル・プラティニ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]らと同じく、運動能力・判断力・創造性を総合してプレイを魅せることが出来る選手として評価されている<ref>川端[2010: 244]</ref>。緩急自在のドリブルを駆使して幾度も決定機を創出し、華奢に見える身体つきながら激しいタックルにもひるまず倒れないバランス感覚を持っており、こうした特質がファンの記憶に長く留めさせている<ref>川端[2010: 244]</ref>。またシュート能力そのものにも長け、ヒールキックやループシュートのようなトリッキーなものもあれば、相手選手の意表をついて遠距離からシュートを放ち得点を挙げることもあった。
また、宗教的観点からベストの果たした功績について言及するものもいる。ベストは北アイルランド出身でプロテスタント系の出自であったが、自身は宗派に固執せず、無頓着な態度を示していた<ref>川端[2010: 243]</ref>。アラン・ベアナーはこうした態度がカトリック色の強かったマンチェスター・ユナイテッドにおいてカトリック系住民とプロテスタント系住民の対立を止揚し、エキュメニカルな働きをしたと指摘している<ref>川端[2010: 243]</ref><ref>Alan Bairner『The Ulster Boys』pp.3-5,10-12</ref>。
当時欧州最強の異名をとっていたベンフィカ・リスボンが欧州カップ戦においてマンチェスター・ユナイテッドと対峙した1996年3月9日、19歳のベストは2得点を挙げ、欧州にその名を知らしめた<ref>川端[2010: 112]</ref>。ポルトガルのスポーツ紙『ア・ボーラ』が「エル・ビートル」と呼びその活躍を取り上げると、サッカーそのものに関心が無い少女たちからもポップスター並にアイドル視されるようになる<ref>川端[2010: 113-114]</ref><ref>[http://www.soccertalk.jp/content/2005/11/no583.html 大住良之:サッカーの話をしよう-No.583 追悼ジョージベスト]</ref>。これは1960年代半ばのサッカー選手には前例の無い特異な現象であり<ref>川端[2010: 114]</ref>、ベストは自伝『恵まれし者』で「人々は私についてあらゆることを知りたがった。サッカー観ばかりでなく、服や音楽の好みや、行きつけのクラブなども。突然私のやることなすことすべてが、ヒップでクールだということになった」と述べており<ref>川端[2010: 114]</ref>、こうした現象について「私はひとつのアイコンになったのだと思う」と回顧している<ref>川端[2010: 115]</ref>。一挙手一投足を注目されるようになったベストは女性関係や夜遊びなどのスキャンダルについても頻繁に報道されるようになり、それがストレスとなってさらに酒を浴びるように飲み、アルコール依存症へと陥ってしまうなどの一面もあった<ref>川端[2010: 231]</ref>。こうした経緯もあってベストの妹、バーバラ・マクナリーは夫のノーマンとともに2006年に「ジョージ・ベスト基金」を立ち上げ、アルコール依存症患者に対する救済やアルコールに関わる医学研究への支援を行うことを表明した<ref>川端[2010: 246]</ref>。
==個人成績==
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