「パークナム事件」の版間の差分

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==影響==
この事件の後敏感に反応したのは、インドシナ進出を狙っていたイギリスであった。フランスが破竹の勢いでタイに迫り、イギリスの領域を侵しかねない状況であったからである。[[1896年]]、イギリス・フランス両国は'''[[メーコーン上流域に関する英仏宣言''']]を発表した。この宣言では、タイはイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。また、[[1904年]]には[[英仏協商]]が成立。イギリスはチャオプラヤー川東岸を、フランスはチャオプラヤー川の西岸を勢力の限界と定めた。
 
一方、床に臥した[[ラーマ5世]]は、賠償金を貸してくれなかったイギリス・武力行使を行ったフランスに不信感を募らせ、今までのような両国との関係を重視していた外交政策を転換し、[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[日本]]などとの外交に重点を置いて外交多角化を図った。