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だが皮肉にも、支援を求めた北魏により西走してきた夏の[[赫連定]]により[[431年]][[1月]]に南安を攻められ、乞伏熾磐は夏に降伏した<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。こうして国家としての西秦は滅亡した<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。乞伏暮末は助命されたが、6月に一族もろとも夏により殺戮されて<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>、西秦は完全に滅亡した。
 
== 国家体制 ==
=== 官制 ===
西秦の勢力基盤だった隴西は漢人豪族が多数居住し、そのため鮮卑族がかなり漢化する事になった<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。単于台が築かれず、五胡を統治するための特別な機構も無く、官制が三省六卿や四征将軍を中心とする[[漢]][[魏]]以来の形態を取っていた事が、それを如実に物語っている<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。高官に就任するのは皇族である乞伏氏が中心であったが、勢力基盤の都合から漢族や[[丁零]]からの就任も少なくなかった。
 
== 西秦の君主 ==