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さらに家康の悪名を近年において高めている理由として、自身の覇権を確立するために活躍した功臣である[[本多忠勝]]や[[榊原康政]]、[[大久保忠隣]]らを関ヶ原後に遠ざけたり、自分の次男である結城秀康や六男の松平忠輝らをあからさまに冷遇し、他人の子のように扱った(秀康や忠輝は器量や才能では将軍となった秀忠よりはるかに上と評されているが、二人とも顔が醜い、もしくは出生の経緯などを疑われて、秀康は三歳のときまで父と対面できず、忠輝は生まれると同時に捨てられた)ことなどが挙げられている。このため、近年の[[仮想戦記]]作品や時代劇では、家康は陰湿かつ陰険な悪謀略家として描かれていることが多い。だがこれは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であるから、江戸時代を悪とするのが政府にとって都合の良いことであったからだとも言われている。
 
また、家康という人物を示す仇名として、「狸親父」というものがある。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に家康が卑劣な謀略の限りを尽くして天下を牛耳ろうとした卑劣な人物ということをも現す仇名となっている。事実、大坂の陣直前に豊臣氏恩顧の有力大名である[[加藤清正]]と[[浅野幸長]]が急死したのは、家康の謀略によるものと言われているし、その他の謀略(方広寺鐘銘問題や関ヶ原までの謀略など)においても卑劣な色が強く、これが近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。徳川側の史料といえる「徳川実紀」でさえ、家康の謀略の数々を何とか懸命に弁護しているほどである(ただし、大久保長安事件だけに対してはさすがに家康を非難しているものもある)。近年では[[織田信長]]の人気が高まっているために、家康はその対比として低評価に傾くことが多く、損な役回りをさせられることが多い。
 
特に、[[太平洋戦争]]以前は秀吉の朝鮮出兵([[文禄・慶長の役]])までもが、[[大日本帝国]]における[[帝国主義]]的な領土拡大政策と合致し、「朝鮮征伐」と称せられるなど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」といった評価がなされることも多かった。
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しかし、[[山岡荘八]]原作の小説'''「徳川家康」'''では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康の再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者も増えてきている。
 
政治家としての家康の評価は分かれている。265年にわたる安定的長期政権を築き上げ、泰平の世を現出した手腕は評価されているが、その反面で保守的な体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったと非難している声もある。また、内政において家康は悪政を敷いたと言われている。特に晩年においては、幕府の基礎を固めるためという一因もあったのであろうが、それでも[[禁教令]]を出して自分の家臣をはじめとする多数のキリシタンを容赦なく弾圧し、さらに百姓に対しては「百姓は殺さぬよう。財の余らぬよう」という言葉の下で圧政を敷いたことから、内政に対する家康の評価は大変低いものがある。
総括すれば、信長、秀吉、そして家康の三者は、ともに人物のスケールが大きく、一般人には正義とも悪とも受け取られる要素を含んでいると言えるだろう。そのために三者三様に根強い人気をもっている。
 
==系譜==