「池田光政」の版間の差分

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* 光政が百姓の負担を軽くしようと雑税を軽減したとき、年貢をもっと上げるべきと家臣が提言したが、光政は「右の手をあらい左の手を汚す」として許さなかったという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。P128</ref>。
* 光政が閑谷学校を訪れた時、和気郡の某村の賤民がかなり遠くから光政の来訪を出迎えていた。光政はそれを見て「あの者達は?」と家臣に質問すると「あれは卑賤の民で、奴らは猪や狸を剥ぎ肉食をする不浄の者どもです」と答えた。それを聞いて光政は彼らを差別する家臣らにむしろ激怒し<ref group="注釈">「其方どもは異な事を申物や。彼等も百姓なり。猪・狸をはぎ肉食をする事、誰とてもすまじきにあらず。何ぞ彼等に限りて其通りに見捨べき事やある」</ref>、彼らに近くに寄ることを許したという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。222頁</ref>。また、この事で賤民の事に関心を抱いた光政は、同じ年の末に「彼らの差し出す年貢を如何している」と役人に質問すると、「奴らは不浄なので年貢は藩庫や知行米には廻しておりません」と答えた。これを聞いて光政は役人を叱り付けてその心得違いを諭し、これからは彼らを一般の百姓と差別しないように命じた<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。223頁</ref>。
*[[衆道]]を嫌悪し、同性愛を激しく弾圧した。光政にとっては男色はかぶき者と同列の存在であり、断じて許すべきではないものとして、光政は男色を「大不義」と呼んだ<ref>「酒井忠清」76P</ref>1658年、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こり、関係者が切腹や追放などの処分を受けたこれを契機として光政は男色の規制を強化し、男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じた。光政にとって、男色を規制することは彼の信条とする「仁政」であった<ref>「酒井忠清」76P</ref>。
 
=== 評価 ===
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== 参考文献 ==
*[[谷口澄夫]] 『池田光政』 吉川弘文館〈[[人物叢書]]〉、1987年。
*[[福田千鶴]] 『酒井忠清』 吉川弘文館([[人物叢書]])
 
=== 伝記文献 ===