「シャルル6世 (フランス王)」の版間の差分

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[[1392年]]に寵臣であった王軍司令官オリヴィエ・ド・クリソンの暗殺未遂事件が起こると、シャルル6世は興奮して首謀者と見られたブルターニュ公[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の討伐軍を自ら率いた。しかし、[[ブルターニュ]]遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父フィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]に「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後、一旦回復したが、不安定な精神状態が続いていた。
 
翌[[1393年]]1月28日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃[[イザボー・ド・バヴィエール]]は侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は[[亜麻]]と[[松脂]]で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、[[たいまつ]]に近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公爵夫人[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ジャンヌ・ド・ブローニュ]]のとっさの機転で助かったものの4人が焼死するという事件になった。シャルル6世はその後、急速に精神を病むようになった。
 
== ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立 ==