「金龍寺 (高槻市)」の版間の差分

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|中興年 = [[964年]]([[康保]]9年)
|中興 = [[千観]]
|正式名 = 邂逅山 金龍寺 紫雲院
|別称 =
|札所等 =
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== 歴史 ==
この寺は、[[790年]]([[延暦]]9年)安部是雄が建てた安満寺に始まるとされ、盛時には19の坊舎があり、[[天皇]]の[[行幸]]があるなど巨刹であった。その後衰退したが、[[964年]]([[康保]]9年)[[園城寺|三井寺]]で修行した[[千観]]が「[[日想観]]」のある土地を求め、金色の雲が湧く山がある。と、この地に来て再興した。ある時境内竜女が現れて法水を甘んじ成仏したのを見て、寺と改称したとさ。そ以来、雨乞いの霊験があり、[[969年]]([[安和]]2年)に旱魃が続いた時に、[[冷泉天皇]]の勅命で千観が祈雨したところたちまち雨が降ったという。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、1573~1592(天正年間)に[[高山右近]]の兵火にあって焼失したが、1602年(慶長7年)に[[豊臣秀頼]]によって再興された。その頃には寺領30石クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたという。古くから[[桜]]の名所であった。
 
その後の金龍寺は[[明治]]時代の[[廃仏毀釈]]により荒廃し、[[1938年]](昭和13年)に[[笹部新太郎]]が桜の調査に訪れたときも、電気も水道もない荒れた境内に老僧が一人いるだけの状態であったという。その後、寺籍は[[岐阜県|岐阜]]に移され金龍寺は廃寺となった。
 
[[能因|能因法師]]の「山寺の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」([[新古今和歌集]])はこの寺を詠んだ歌である。この寺の桜は能因桜と呼ばれ、桜の名所として『[[摂津名所図会]]』にも書かれており、[[西行]]や[[松尾芭蕉]]もこの寺を訪れ句や文を残している。
 
== その他 ==
* 身がな二つ吉野も盛金龍寺 - 井原西鶴
* けふまては名にのみきゝし山寺の花に昔の春も見るかな - 岡部宣勝
* うき世には有りえんこともたまさかのいけらんとだに思ひやはする - 和泉式部
* 春風に今は氷も玉坂の池のおもてはきざ波ぞうつ - 家隆
 
== 所在地・交通アクセス ==