「第二次ウィーン包囲」の版間の差分

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== 戦闘の経過 ==
=== 包囲戦前の背景 ===
オスマン帝国は、[[17世紀]]の初頭以来[[オスマン帝国の君主|君主]]([[スルターン|スルタン]])の国政に対する実権が縮小し、[[16世紀]]から急速に進んだ軍事技術・制度の発展など様々な時代の変化の中で君主の専制と中央集権に支えられた軍事的優位が弛緩しつつあった。このような[[帝国]]の危機的状況の中、[[1656年]]に帝国の最高執政者である[[大宰相]]に就任した[[{{仮リンク|キョプリュリュ・メフメト・パシャ]]|en|Köprülü Mehmed Pasha}}、息子で後継の大宰相となった[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]の2人は国勢の回復に努め、ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドなどの諸国に次々に勝利して東ヨーロッパにおいてオスマン帝国史上最大の版図を実現していった。
 
[[1676年]]、キョプリュリュ・アフメト・パシャの病死により大宰相に就任した[[カラ・ムスタファ・パシャ]]はキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿であり、[[キョプリュリュ家]]の改革政治を引き継いで拡大政策を押し進めた。時の君主である[[メフメト4世]]は[[エディルネ]]の宮殿に篭って狩りを趣味とするばかりで政治に対する関心も実権もなく、オスマン帝国の全権はキョプリュリュ改革の遺産を引き継いだ強力な大宰相の手に握られていた。