「横田久則」の版間の差分

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[[和歌山県立那賀高等学校|那賀高]]から、[[1985年]]の[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]6位で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に入団。
 
[[1986年]]、アメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学した。入団2年目の[[1987年]]に5勝を挙げ大いに期待されたが、その後は肩の故障などで苦しんだ。また故障がちであったため、「ブルペンエース」というニックネームがついてしまった。清原は現役時の横田の事を「あいつの苦労に比べたら俺の苦労なんて小さいもの」と語っていた。[[1995年]]には先発ローテーション入りして6勝を挙げ、[[1998年]]に同じく6勝ながら11年ぶりの完封勝利を記録[[1998年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第5戦の先発投手を務めた(結果は敗戦投手)。
 
[[2001年]]は[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[2002年]]は[[阪神タイガース]]でプレーした。阪神を戦力外となり、[[台湾]]・[[中華職業棒球大聯盟]]の[[兄弟エレファンツ]]に移籍。[[2003年]]は16勝をあげ、最多勝を獲得した。[[2004年]]に現役引退し、兄弟のコーチを2年間務めた。