「倒幕運動」の版間の差分

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=== 土佐藩 ===
土佐は[[長宗我部氏]]の支配にあったが、[[関ヶ原の戦い]]以降は、新しい領主・[[山内一豊]]を迎えることになった。幕末には[[上士]]から[[武市瑞山]]、[[郷士]]からは[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]といった人材が生まれ、藩内は倒幕運動は一気に早まった。坂本は、[[後藤象二郎]]ら上士と手を組み、幕府に[[大政奉還]]を促し、中岡は[板垣退助]]と結束して武力討幕を策した。[[土佐勤王党]]で活躍した郷士達は戊辰戦争では、[[迅衝隊]]に加わり華々しい戦果を挙げた。
{{独自研究|section=1|date=2008年7月}}
[[土佐藩]]の場合、この関ヶ原の戦いはその後多くの悲劇を生んだ。戦前、土佐は[[長宗我部氏]]の支配にあったが、結果領地没収の憂き目にあい、土佐には新しい城主・[[山内一豊]]を迎えることになった。だが、一豊は[[徳川家康]]、[[徳川秀忠|秀忠]]に、旧臣の長宗我部氏の家臣達を排除する事を命令されていた。この命令に従って[[土佐山内氏|山内氏]]は長宗我部氏の家臣達を[[郷士]]、自身の家臣達を[[上士]]と区別し、差別化を図った。さらに、[[大坂の役|大坂夏の陣]]にて長宗我部氏が断絶すると、上士達は200年以上に渡って郷士に激しい差別を与え続けた。
 
この怨恨により、郷士から[[武市瑞山]]、[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]といった人材が生まれ、彼らの活躍により倒幕運動は一気に早まった。ただし、坂本や中岡にとっては、恨みの対象は徳川家ではなく、上士・郷士という差別を生み出した[[幕藩体制]]そのものにあり、彼らは怨恨を越えて[[後藤象二郎]]、[[板垣退助]]といった上士と手を組み、幕府に[[大政奉還]]を促した。しかし活躍した郷士達はそのほとんどが[[明治維新]]を見ることなく非業の死を遂げる。中には武市のように当時の藩主[[山内容堂]]によって無実の罪を着せられ処刑された者も少なくなかった。結果、倒幕を行ったのは、関ヶ原の戦いによって徳川家におとしめられた郷士達ではなく、徳川家によって余りある恩を受けた上士達であった<ref>薩摩藩、佐賀藩、特に長州藩においては明治時代高官に上り詰めたのはほとんどが下級、もしくは中級の武士であった。</ref>。土佐藩兵は板垣を大将に[[戊辰戦争]]でよく活躍しており、さらに大政奉還の青写真を描いたのは坂本龍馬であったが、それを実行に移したのは容堂であった。そして、明治新政府内で栄進したのは、後藤や板垣といった上士にほぼ限られている。この事は、容堂が藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷に奉仕し、かつ幕府にも良かれという行動を取ったことから来ている。結果、容堂は[[幕末の四賢侯]]の一人に挙げられていながらも、討幕運動が盛んになり続けても逆に幕府を擁護したため幕末及び明治初期の政局に混乱をきたす事となり、彼の評価は芳しい物ではなくなっていく。
 
=== 肥前藩 ===