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| Born = <!-- 個人のみ -->{{生年月日と年齢|1945|1|29}}
| Died = <!-- 個人のみ -->
| Origin = [[長野県]][[伊那町]](現・[[伊那市]])
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
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'''本間 千代子'''(ほんま ちよこ、[[1945年]][[1月29日]] - )は、[[日本]]の[[歌手]]・[[俳優|女優]]。本名同じ。[[長野県]][[伊那町]](現・[[伊那市]])出身。[[夫]]は[[音楽プロデューサー]]の[[ひのきしんじ]]。
 
== 来歴 ==
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[[杉並区立高井戸第四小学校]]に通うようになってからは「みすず児童合唱団」で歌の勉強を続ける。先生はやがて姉の夫となる当時高校3年生であった[[冨田勲]](シンセサイザーアーティストとして著名)であった。その後ポリドール児童合唱団に所属し、昭和26年(1951年)1月にはNHKから『けんけん小雉』『お菓子の汽車』が放送される(同合唱団には[[倍賞千恵子]]がいて、その後も友好を保つ)。
 
小学校4年のとき杉並の[[杉並区立松庵小学校]]に転校、この頃から[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にあった「ひばり児童合唱団」に往復4時間かけて通うようになる(同合唱団には[[松島トモ子]]がいて,その後も友好を保つ)。合唱団団長の皆川和子に認められ、[[洗足池]]近くの氏の家で個人レッスンを受けるようになり(この頃個人レッスンを受けていた一人に吉永小百合がいて、その後も友好を保つ)、オペレッタ『みにくいあひるの子』に主演し松島トモ子主演『魔法の笛』にも出演する。この頃[[日本コロムビア|コロムビア]]専属の童謡歌手となる(コロムビアでは30数曲の童謡を吹き込む)。
 
昭和32年([[1957年]])、姉明子と同じ三鷹台にある[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院中等部]]に入学。[[東映映画]]映画の音楽を担当していた義兄冨田勲の勧めで撮影所に出入りするようになり山崎所長の知遇を得て、昭和33年([[1958年]])8月東映児童研修所の第1期生となる。
 
すぐに[[堀内甲]]監督の児童向け映画『六人姉妹』に出演、この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映大川社長から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、昭和36年([[1961年]])11月にクランクインした[[高倉健]]主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に[[千葉真一]]の妹役・留美子で本格デビュー。その4か月後『歌う明星・青春がいっぱい』に[[渥美清]]の妹役・千代子として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。昭和38年([[1963年]])9月タクシー乗車中に交通事故に合い額を切るなどで10日間入院するがその後復帰。
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昭和38年([[1963年]])頃から清楚な容姿を生かして青春映画に出演。また透き通る清純な声で多くの青春歌謡を歌った。愛称は「チョコ<ref>「チコと一緒に」という主演ドラマは当初「チョコと一緒に」で企画されたが、番組のスポンサーだったヤクルトが反対したという。当時本間が不二家のチョコレートのCMに出演していたため、不二家を利すると考えられたのだろう。また、「“チョコっと一緒に”と聞えてイヤ」という本間自身の要望もあったとか。</ref>」。ビデオが普及する少し前だったため残された映像は少なく、幻の青春スターでもある。代表曲は『若草の丘』『愛しあうには早すぎて』『白いボール』などで、LP3枚、EP20数枚のレコードを出したが、今も人気が高く取引されている。代表主演青春映画は『君たちがいて僕がいた』『十七才のこの胸に』『あの雲に歌おう』など、一部はDVDで市販されている。
 
昭和39年([[1964年]])には日本映画製作者協会の第九回エランドール賞新人賞を[[松本幸四郎 (9代目)|市川染五郎]]や[[松原智恵子]]などと共に受ける。この頃人気は過熱し,爆破狂[[草加次郎]]を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。当時雑誌の人気投票で[[吉永小百合]]を抜いて1位になることもあり、[[ブロマイド]]売上げでも高位をキープ<ref>1964年(昭和39年)の女性タレントのプロマイド売上枚数は、月間ベースでは吉永小百合を抜いて1位になる事もあったが、年間ベースでは、やはり吉永が1位、本間は2位であった。翌1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)にもベストテンに名を連ねていたが、1967年(昭和42年)以降は上位ランキングから姿を消している。([[マルベル堂]]資料、雑誌「[[近代映画]]」の記事による)</ref>していた。しかし、21歳で結婚してしだいに芸能活動から遠ざかり、30代で再婚して以降は完全に引退
 
昭和40年([[1965年]])度のNHKの[[大河ドラマ]]『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』で豊臣[[五奉行]]の一人[[浅野長政]]の妻ややとして出演する。この頃を中心に多くのレコードを吹き込み、青春映画に出演する(詳細次表)。
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===テレビドラマ===
* [[ナショナルキッド]] (1960年、[[テレビ|NET]])
* [[二人だけの橋]] (1963年、NET)
* [[チコといっしょに]] (1965年、[[日本テレビ|NTV]])
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] (1965年、[[NHK]])
* 太郎 (1966年、NHK) <small>※結婚のため、途中降板</small>