「本間千代子」の版間の差分
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| Born = <!-- 個人のみ -->{{生年月日と年齢|1945|1|29}}
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| Origin = [[長野県]]
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'''本間 千代子'''(ほんま ちよこ、[[1945年]][[1月29日]] - )は、[[日本]]の[[歌手]]・[[俳優|女優]]。本名同じ。[[長野県]]
== 来歴 ==
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[[杉並区立高井戸第四小学校]]に通うようになってからは「みすず児童合唱団」で歌の勉強を続ける。先生はやがて姉の夫となる当時高校3年生であった[[冨田勲]](シンセサイザーアーティストとして著名)であった。その後ポリドール児童合唱団に所属し、昭和26年(1951年)1月にはNHKから『けんけん小雉』『お菓子の汽車』が放送される(同合唱団には[[倍賞千恵子]]がいて、その後も友好を保つ)。
小学校4年のとき杉並の
昭和32年([[1957年]])、姉明子と同じ三鷹台にある[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院中等部]]に入学。[[東映
すぐに[[堀内甲]]監督の児童向け映画『六人姉妹』に出演、この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映大川社長から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、昭和36年([[1961年]])11月にクランクインした[[高倉健]]主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に[[千葉真一]]の妹役・留美子で本格デビュー。その4か月後『歌う明星・青春がいっぱい』に[[渥美清]]の妹役・千代子として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。昭和38年([[1963年]])9月タクシー乗車中に交通事故に合い額を切るなどで10日間入院するがその後復帰。
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昭和38年([[1963年]])頃から清楚な容姿を生かして青春映画に出演。また透き通る清純な声で多くの青春歌謡を歌った。愛称は「チョコ<ref>「チコと一緒に」という主演ドラマは当初「チョコと一緒に」で企画されたが、番組のスポンサーだったヤクルトが反対したという。当時本間が不二家のチョコレートのCMに出演していたため、不二家を利すると考えられたのだろう。また、「“チョコっと一緒に”と聞えてイヤ」という本間自身の要望もあったとか。</ref>」。ビデオが普及する少し前だったため残された映像は少なく、幻の青春スターでもある。代表曲は『若草の丘』『愛しあうには早すぎて』『白いボール』などで、LP3枚、EP20数枚のレコードを出したが、今も人気が高く取引されている。代表主演青春映画は『君たちがいて僕がいた』『十七才のこの胸に』『あの雲に歌おう』など、一部はDVDで市販されている。
昭和39年([[1964年]])には日本映画製作者協会の第九回エランドール賞新人賞を[[松本幸四郎 (9代目)|市川染五郎]]や[[松原智恵子]]などと共に受ける。この頃人気は過熱し,爆破狂[[草加次郎]]を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。当時雑誌の人気投票で[[吉永小百合]]を抜いて1位になることもあり、[[ブロマイド]]売上げでも高位をキープ<ref>1964年(昭和39年)の女性タレントのプロマイド売上枚数は、月間ベースでは吉永小百合を抜いて1位になる事もあったが、年間ベースでは、やはり吉永が1位、本間は2位であった。翌1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)にもベストテンに名を連ねていたが、1967年(昭和42年)以降は上位ランキングから姿を消している。([[マルベル堂]]資料、雑誌「
昭和40年([[1965年]])度のNHKの[[大河ドラマ]]『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』で豊臣[[五奉行]]の一人[[浅野長政]]の妻ややとして出演する。この頃を中心に多くのレコードを吹き込み、青春映画に出演する(詳細次表)。
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===テレビドラマ===
* [[ナショナルキッド]] (1960年、[[テレビ|NET]])
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* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] (1965年、[[NHK]])
* 太郎 (1966年、NHK) <small>※結婚のため、途中降板</small>
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