「中村吉右衛門 (初代)」の版間の差分

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===当り役===
[[File:Kichiemon Nakamura I as Takebe Genzō.jpg|thumb|left|200px|『菅原伝授手習鑑』の<br />武部源蔵]]
吉右衛門の当り役は
* 『[[一谷嫩軍記]]』「熊谷陣屋」<!--(いちのたに ふたば ぐんき・くまがや じんや)-->の[[熊谷直実]]
* 『[[菅原伝授手習鑑]]』「寺子屋の松王丸と武部源蔵
* 『[[籠釣瓶花街酔醒]]』「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門
* 『[[天衣紛上野初花]]』「河内山」<!--(くもにまごう うえのの はつはな・こうちやま)-->[[河内山宗春|河内山宗俊]]
* 『[[極付幡随長兵衛]]』(湯殿の長兵衛の[[幡随院長兵衛|幡随長兵衛]]
* 『[[隅田川続俤]]』(法界坊)の[[穎玄|法界坊]]
* 『[[妹背山婦女庭訓]]』(妹背山)の大判事清澄漁師鱶七{{smaller|ハ]]金輪五郎
* 『[[時今也桔梗旗揚]]』(馬盥光秀)の[[明智光秀|武智光秀]]
* 『[[絵本太功記]] 』「十段目尼ケ崎閑居」(太十)の武智光秀
* 『[[塩原多助経済鑑』(塩原多助)<!--(しおばら たすけ けいざい かがみ・しおばら たすけ)-->の久六
* 『[[松竹梅湯島掛額』「お土砂」<!--(しょうちくばい ゆしまの かけがく・おどしゃ)-->の紅長
* 『[[夏祭浪花鑑]]』「鳥居前」「泥場」<!--(なつまつり なにわ かがみ)-->の團七九郎兵衛
* 『[[盲長屋梅加賀鳶]]』(加賀鳶)の日陰町松蔵
* 『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)<!--(つゆこそで むかし はちじょう・かみゆい しんざ)-->の弥太五郎源七
* 『[[平家女護島]]』「俊寛の[[俊寛]]
* 『[[仮名手本忠臣蔵]]』の大星由良助、桃井若狭之助、加古川本蔵
* 『[[近江源氏先陣館]]』「盛綱陣屋」<!--(おうみげんじ せんじん やかた・もりつな じんや)-->の[[佐々木盛綱]]
* 『[[ひらかな盛衰記』の[[樋口兼光|樋口次郎]]
* 『[[梶原平三誉石切]]』(石切梶原)<!--(かじわら へいぞう ほまれの いしきり・いしきり かじわら)-->の[[梶原景時|梶原平三]]
* 『[[松浦の太鼓]]』の[[松浦鎮信 (天祥)土屋逵直|松浦侯]]など数多い。
* 『[[増補桃山譚]]』(地震加藤)<!--(ぞうほ ももやま ものがたり・じしん かとう)-->や『二條城の清正』の[[加藤清正]]においての加藤清正を得意とし自他共に認める「清正役者」で特に得意認めていた
 
==人物==
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==逸話==
[[File:Kichiemon Nakamura I as Takebe Genzō.jpg|thumb|left|200px|『菅原伝授手習鑑』の<br />武部源蔵]]
熱演型でどんな役でも懸命に演じたので舞台では唾がよく飛んだという。
 
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[[昭和天皇]]の初めての天覧歌舞伎になるという、名人の名高い舞台に選ばれている。
 
[[山田風太郎]]の著書・『[[人間臨終図巻]]』によると、吉右衛門は医者好きで、ちょっと[[風邪]]をひいただけでも「医者を呼べ」と大騒ぎし、挙句の果てには自身の主治医の家の隣に引っ越したほどであった。そのため、[[梨園]]では一時期、ちょっとした風邪等の軽い病気に罹ると、「吉右衛門になった」という隠語が使われたといわれる。<!--
<!--*上記のことから、初代吉右衛門は神経質な人物であったことが伺え、後年、[[尾上辰之助 (初代)|初代尾上辰之助]]の気質を、父の[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]は「性格は(初代)吉右衛門にそっくりだ」と言わしめるほどであった。--><!-- これはむしろ松緑についての記事内容かと -->
<!--*北海道巡業で吉右衛門は生まれて初めて飛行機に乗ったが、機中で目をつぶり「南無妙法蓮華経」を唱え続けていた。付き添っていた娘婿の松本白鸚は清正のようだと思ったという。--><!-- 念仏と清正の関係は? -->
[[2006年]]([[平成]]18年)9月、初代吉右衛門生誕120年を記念して、孫の二代目中村吉右衛門や九代目松本幸四郎らによって初めて'''秀山祭'''が催された。この「秀山」は初代吉右衛門の[[俳名]]にちなんだものおり、第1回は盛況のうちに成功を納め、以後現在まで秋の[[歌舞伎座]]九月公演の定番となった。
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kichiemon Nakamura I}}