「ヤン・ブリューゲル (父)」の版間の差分

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== 生涯 ==
父親はヤンが1歳の時に亡くなり、母親も1578年に亡くなったため、兄の[[ピーテル・ブリューゲル (子)|ピーテル]]と姉妹のマリアと共に、画家であった祖母[[:en:Mayken Verhulst| Mayken Verhulst]](彼女の夫は同じく画家の[[ピーテル・ファン・アルスト]])に引き取られる。画家であった祖母は二人の孫に絵画を教えたと思われる。一家は1578年以降に[[アントウェルペン]]に移住。[[ギリス・ファン・コーニンクスロー]]等の画家の下で学ぶ。1589年から7年間イタリアに滞在し、ミラノでは後に彼のパトロンとなるミラノ大司教フェデリコ・ポロメオのために働いた。1957年に[[アムステルダム]]に戻り、1601年には[[聖ルカ組合]]のメンバーとなる。1610年には南部ネーデルラント総督であった[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ (1559-1621)|アルブレヒト・フォン・エスターライヒ]]と[[イサベル・クララ・エウヘニア]]の[[宮廷画家]]に任命された。
 
ヤンは始め、花や果物といったものを描いていたが、後に風景画で評判を得るようになる。兄のピーテルと比べると、父親の模倣ではなく独自のスタイルを築いた。初期の作品は聖書から取った主題に、特に森を描いた風景画を組み合わせたものが多く、そのスタイルには森林画家のギリス・ファン・コーニンクスローの影響が見られる。後期になると、純粋な風景画や街の情景、静物画を描くようになっていった。