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'''小笠原 真方'''('''おがさわら さねかた'''、[[慶安]]5年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[1652年]][[5月27日]]) - [[宝永]]6年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1709年]][[8月10日]]))は、[[豊前]][[小倉新田藩]]([[千束藩]])の初代藩主。父は[[小笠原忠真]](真方は四男)。母は永貞院。正室は[[黒田長興]]の娘。官位は従五位下。[[備後国|備後]]守。[[備中国|備中]]守。
 
1652年4月20日生まれ。幼名は千助。[[1671年]]9月23日、兄の[[小笠原忠雄]]より1万石を分与されて、[[小倉藩]]の支藩である小倉新田藩を立藩した。しかし藩政においては家老、並びに本家の小倉藩によって執り行なわれたうえ、自身は領地に赴かずに篠崎館に住んだので篠崎殿と称された。
 
1709年7月5日、[[参勤交代]]で船により帰国途中の[[讃岐]][[小豆島]]の坂手浦において、暴風雨のために船が遭難し、溺死してしまった。享年58。後を養嗣子の[[小笠原貞通]]が継いだ。墓所は[[北九州市]][[小倉北区]]の開善寺。
 
[[Category:江戸の大名|おかさわらさねかた]]