「山内豊熈」の版間の差分

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藩政においては藩政改革を自ら行ない、西洋砲術を導入し、文武を奨励し、倹約令による藩財政再建、さらに[[馬淵嘉平]]など身分にとらわれない有能な人材の登用などを行なっている。
 
馬渕嘉平は豊熈からの信任が厚く、藩財政の収支の見直し、専売制の強化、問屋制からの脱却による寄生的な藩財政体質の改善など、旧体制からの脱却と新体制の確立を目指した。このため、馬渕らは「おこぜ組」と呼ばれて保守派から異端視されたが、豊熈は嘉平を支持した。だが、馬渕が当時異学視されていた[[心学]]を学んでいたことを保守派から糾弾されたため、豊熈はやむなく馬渕を処罰せざるを得なくなった。また、豊熈も嘉永元年(1848年)の[[参勤交代]]で[[江戸]]に出た直後の7月10日に34歳の若さで死去したため、藩政改革は結果的に失敗に終わったのである。
 
跡を弟で養嗣子の[[山内豊惇|豊惇]]が継いだ。
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[[Category:土佐藩主|とよてる]]
[[Category:土佐山内氏|とよてる]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
[[Category:1815年生]]
[[Category:1848年没]]