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* [[1891年]][[ブダペスト]]生まれ。
* [[1908年]]ミンタ・[[ギムナジウム]]を首席で卒業。
* [[1912年]]4月~6月[[カールスルーエ大学]]にブレディッヒ教授を頼って遊学。[[化学]]への関心を深め
* [[1913年]][[ブダペスト大学]]卒業。医学博士号取得。
* [[1917年]]ブダペスト大学から化学博士号を与えられる取得
* [[1914年]]再びカールスルーエ大学に入学移籍するが、このとき第一次世界大戦勃発。既にこの頃[[アルベルト・アインシュタイン]]と文通をしてい
* [[1917年]]最初の恋人、スイス人ジャネットと別れ
* [[1919年]]後の夫人マグダ・ケミニーと出会う。
* [[1920年]]ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に入るへ。
* [[1921年]][[ベルリン]]で結婚。
* [[1928年]][[レオ・シラード]]、[[ユージン・ウィグナー]]、[[ジョン・フォン・ノイマン]]とともにソ連問題研究会をつくった
* [[1932年]][[堀内寿郎]]とベルリンで出会う。い、その[[化学反応論]]に深く傾
* [[1933年]]、[[ナチス]]の人種迫害を避けて英国に亡命。堀内寿郎らを連れて[[マンチェスター大学]]へ移った。物理化学者として219編の論文と1冊の著書を残す。したが、その内容は[[吸着]]のポテンシャル説の研究(最初の論文は1914年に書かれて50年間近く評価されなかった。現在ではシリカゲルや活性炭等の消臭効果等で知られている)・[[X線]]解析と[[結晶]]の研究・[[化学反応]]速度論の研究などと幅広い。化学と物理学を明確に分けた論文(反応のポテンシャル曲面論)を認めさせた点でも高く評価されている。
*[[1949年]]6月 突然、社会科学に研究主題を転向。[[ノーベル賞]]をとるの候補者と目されていた中の転向で、過去の物理化学者としての自分の発見の過程を整理した。科学哲学者として[[暗黙知]]や[[層の理論]]を提示し、新たな哲学を構築するした。[[モーリス・メルロー=ポンティ]]以外、西欧哲学とはあまり接点がない。[[オックスフォード大学]]主任研究員等を歴任。
* [[1961年]]大学を引退。
* [[1975年]][[ノーンプトン]]の病院で死去。84歳。
 
=== 一族 ===
次兄は[[経済人類学]]者 [[カール・ポランニー]]。息子は[[ジョン・ポラニー|ジョン・ポランニー]]([[1986年]]度[[ノーベル化学賞]]受賞した物理化学者)である。
 
== 主要著書 ==
* 『暗黙知の次元 - 言語から非言語へ』 [[佐藤敬三]]訳、[[紀伊國屋書店]]、1980年01 ISBN 4314003014 / [[高橋勇夫]]訳、[[ちくま学芸文庫]] 2003年12 ISBN 4480088164 - 紀伊國屋書店には誤訳がある{{要出典|date=2009年8月}}。新訳であるちくま学芸文庫版を参考としたい。
* 『個人的知識 - 脱批判哲学をめざして』 [[長尾史郎]]訳、[[ハーベスト社]]、1985年12 ISBN 4938551004
* 『知と存在 - 言語的世界を超えて』 [[佐野安仁]]他訳、[[晃洋書房]]、1985年06 ISBN 4771003041