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{{基礎情報 中国君主
|名 =道光帝 愛新覚羅旻寧
|代数 =8
|呼称 =皇帝
|画像 =[[File:清 佚名 《清宣宗道光皇帝朝服像》.jpg|250px]]
|説明 =清宣宗道光皇帝朝服像(北京[[故宮博物院]]蔵)
|説明 =
|王朝 =清
|在位期間 =[[1820年]][[10月3日]] - [[1850年]][[2月25日]]
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|諡号 =效天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寬定成皇帝
|廟号 =宣宗
|生年 =[[乾隆]]47年8月10日([[1782年]][[9月16日]]<br/>([[乾隆]]47年8月10日
|没年 =[[道光]]30年1月14日([[1850年]][[2月25日]]<br/>([[道光]]30年1月14日
|父 =[[嘉慶帝]](第2子)
|母 =[[孝淑睿皇后]]
|皇后 =[[孝穆成皇后]]<br>[[孝慎成皇后]]<br>[[孝全成皇后]]<br>[[孝静成皇后]]
|皇后 =
|陵墓 =慕陵
|年号 =[[道光]] : [[1821年]] - [[1850年]]
|注釈 =
}}
'''道光帝'''(どうこうてい、[[乾隆]]47年8月10日([[1782年]]9月16日) - [[道光]]30年1月14日([[1850年]]2月25日) 在位:[[1820年]][[10月3日]] - [[1850年]][[2月25日]])は[[中国]][[清]]の第8代[[皇帝]]。[[諱]]ははじめ'''綿寧'''(めんねい)、即位後に'''旻寧'''(びんねい)と改めた。[[廟号]]は'''宣宗'''(せんそう)。在世時の[[元号]]の[[道光]]を取って道光帝と呼ばれる。
 
== 生涯 ==
嘉慶年間より[[イギリス]]からの[[アヘン]][[密輸]]が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもアヘンの害は甚だしいものがあった。またアヘンの輸入増加によりそれまで中国の大幅な黒字だった対イギリス貿易が赤字に転落し、国内の[[銀]]が国外へ流出する事で国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の[[三貨制度]]と同様に[[銀貨]]と[[銅銭]]が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われていたため、銭貨で見ると実質的な増税となった<!-- 単純な銀本位制であれば、銀の高騰はデフレを意味するはず。 -->
 
道光18年([[1836年]](道光18年)、道光帝は[[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸に望み、商人たちのアヘンを没収しこれを焼き払った。道光22年([[1840年]]、怒ったイギリスのアヘン商人は[[広州市|広州]]を攻撃し、イギリス本国も艦隊を出して清を攻撃した([[アヘン戦争]])
 
アヘン戦争に大敗し、屈辱的な[[南京条約]]を結ばされた清政府だが、その後イギリスだけに美味しい思いをさせる事は無いと思った[[フランス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[黄埔条約]]、[[望厦条約]]を結ばされる事になった。これ以降の清は外に[[帝国主義]]の植民地活動を内に[[軍閥]]による権力奪取を心配せねばならなくなった。
 
道光30年([[1850年]](道光30年)に道光帝崩御するが、その直後に[[太平天国の乱]]が勃発し、いよいよ清は前途多難となる。
 
なお陵墓は[[清西陵]]にある。
 
== 后妃 ==
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{{清の皇帝|1820年 - 1850年||第8代}}
{{start box}}
{{S-reg|}}
{{Succession box
| title = [[清|清朝]]皇帝
| years = 第8代:[[1820年]] - [[1850年]]
| before = [[嘉慶帝]]
| after = [[咸豊帝]]
}}
{{end box}}
 
{{清の皇帝|1820年-1850年}}
 
{{DEFAULTSORT:とうこうてい}}
[[Category:清の皇帝]]
[[Category:北京出身の人物]]
[[Category:1782年生]]
[[Category:1850年没]]
[[Category:清の皇帝]]
[[Category:北京出身の人物]]
 
[[de:Daoguang]]