「カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル」の版間の差分

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[[独ソ戦]]初期の1941年7月1日、シュテュルプナーゲルの第17軍が東[[ガリシア]]の[[リヴィウ]]を占領すると、ドイツの[[ゲシュタポ]]及び[[親衛隊]]保安部隊の特務グループ、ドイツ軍に協力する外国人志願兵や地元の[[ウクライナ人]]市民などが同市の[[ユダヤ人]]4000人を殺害した。[[ソビエト連邦]]側の発表によれば、この[[ポグロム]]は第17軍司令部の教唆によるもので、[[ナチス・ドイツ]]の指導部もこの出来事を「自浄作用」と肯定的に評価したという。シュテュルプナーゲル個人がこの出来事にどの程度関わっていたかは明らかではない。ただしこの説を唱えているのは[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]時代の[[プロパガンダ]]のみで、他に史料は残っていない。
 
1942年2月、[[ドイツ国防軍]]のフランス司令部司令官(Die Befehlsstelle des Militärbefehlshaber Frankreich)に転じ、[[パリ]]に駐在する。前任者[[オットー・フォン・シュテュルプナーゲル]]は遠い親戚に当たる。
 
ヒトラー暗殺計画に加担するが、1944年7月20日の決行は失敗に終わり、シュテュルプナーゲルは逮捕された<ref>同じく計画に加担していたB軍集団参謀長[[ハンス・シュパイデル]]の裏切りにより逮捕されたとする説もある[http://www.nrw.vvn-bda.de/texte/0436_knorr.htm]。</ref>。拳銃自殺を試みて失敗し失明したシュテュルプナーゲルは、人民法廷で死刑判決を受け、ベルリン・プレッツェンゼーの監獄で[[絞首刑]]となった。