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== 生涯 ==
=== 初期 ===
静岡県出身で、東京で学生時代自堕落な生活をしていたが、1904年中央福音伝道館で中田重治の説教を聴いて回心する。
回心当初は[[救世軍]]に所属して、救世軍[[士官]]([[牧師]])になることを希望したが、[[山室軍平]]の勧めで神学者となるべく[[明治学院]][[神学部]]に学ぶが、信仰の問題により[[中退]]する。
=== ホーリネス時代 ===
その後[[東洋宣教会]]([[ホーリネス]])派の伝道者になり、[[聖教団事件]](1911年)をはじめとする[[中田重治]]の働きに深く関わった。渡辺善太と米田豊らは中田側についた。しかし、1ヶ月後、中田は、渡辺達に相談することなく、カウマンと妥協して和解した。このことに不満を抱いて、「狡兎尽きて走狗煮らる」と口にした。休養のために、米田豊と共に、秩父方面にトラクト配布に出かけた。
同じく日本ホーリネス教会の[[野辺地天馬]]の妹フデと結婚する。[[聖協団事件]]により失望して、[[東洋宣教会]]から身を引いた
=== 留学 ===
1915年ごろ帰国後して、[[聖学院神学校]]、[[同志社大学]]神学部で[[旧約聖書]]を教えた。
1923年より[[ドイツ]]に留学。[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]に学ぶ。
=== メソジスト時代 === 1928年に帰国後、[[日本メソジスト教会]]の教職になり、メソジストの神学校である[[青山学院]]神学部教授を務めながら、[[日本メソジスト教会]](1941年以降[[日本基督教団]])[[銀座教会]][[牧師]]を務めた、最終的に名誉牧師になる。 1933年の[[ホーリネス分裂事件]]に際して、[[阿部義宗]]、[[星島二郎]]、[[松山常次郎]]と共に和協委員を務めて、中田監督側と委員側の和解に骨を折る。渡辺らの努力が実り、1936年10月19日に法的に[[和協分離]]が成立する。
1940年に日本基督教女子神学専門学校([[共立女子神学校]]、東京聖経女学校、聖和女学院の合同)の校長になり、銀座教会の牧師に就任する。
=== 日本基督教団 1941年に銀座教会の牧師に就任して、日本基督教団成立の際に、第2部に所属する。
1942年のホーリネス弾圧事件の際に、1944年11月の第8回公判で、[[桑田秀延]]と共に出廷した。桑田はホーリネス系が正統派教会であることを否定したが、渡辺は「日本聖教会は正統派ですか。」との問いに対して「そうです」と明確に答えている。<ref>中村敏「日本キリスト教宣教史」261項</ref>
1959年に米田勇(米田豊の子)により「中田重治伝」が出版された時に「中田重治とそのホーリネス運動」という文を載せて、中田重治について功罪評価を述べている。<ref>米田勇「中田重治伝」533-575</ref>
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