「アカシアの雨がやむとき」の版間の差分

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[[1960年代]]の歌謡史を代表する歌手のひとり、西田佐知子のヒット曲で、1960年4月に原田信夫が歌う「夜霧のテレビ塔」の片面としてリリースされた([[レコード]]の[[A面/B面|A面とB面]]に異なる歌手の歌唱楽曲が収録されたレコード盤)。
 
その「夜霧のテレビ塔/アカシアの雨がやむとき」は、西田がポリドール・レコードから発売した4枚目のシングル盤。それ以前に発売された3枚も、異なる歌い手と[[カップリング曲|カップリング]]されたレコード盤である。発売当時のレコード・ジャケットは名前の表記が誤植して旧芸名の「西田佐智子」となっており、原田の顔写真も掲載されていたが<ref>ベストアルバム『[[GOLDEN☆BEST 西田佐知子]]』(2003.11.26、ユニバーサルミュージック)のCDジャケットに掲載されている。</ref>、本楽曲が圧倒的に広く浸透した結果、のちにレコードジャケットが西田本人のみの写真にレイアウト変更され、名前も現芸名の「西田佐知子」に修正されたリニューアル盤に切り替えられていった<ref>リニューアル盤の西田の写真も複数パターンが存在する。</ref>。
 
「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景として、「日米安保闘争」と関連して語られることは多い<ref>[[CD-BOX]]『[[西田佐知子歌謡大全集]]』(2007.3.28、ユニバーサルミュージック)に封入された[[小冊子|ブックレット]]掲載の[[ライナーノーツ]]でも触れられている。</ref>。その中身とは、1960年1月の「[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]」調印を発端とした[[安保闘争#60年安保|安保闘争]]後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが、その乾いたヴォーカルと廃頽的な詞に共鳴して歌われたことで広まっていった、というものである<ref>室伏哲郎・著『ニッポン風俗・芸能グラフィティ』2003年、[[自由国民社]]刊。</ref>。そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ[[樺美智子]]死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることが多々ある。