「王沈 (西晋)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m r2.7.3) (ロボットによる 変更: en:Wang Shen (Three Kingdoms)
編集の要約なし
1行目:
'''王 沈'''(おう しん、生年不詳 - [[266年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]から[[西晋]]の[[政治家]][[歴史家]][[武将。[[魏 (三国)|魏]]・西晋に仕えた。[[字]]は'''処道'''。祖父は王柔([[後漢]]の[[匈奴]][[中郎将]])の孫父は王機(魏の東郡[[太守]])の子叔父(従叔父)は[[王昶 (曹魏)|王昶]]の甥(従甥)子は[[王浚]]。[[并州]][[太原]]郡晋陽県
 
== 生涯 ==
[[太原]]郡晋陽県の人。読書を好み、文章が上手かった。王沈は幼い時に孤児となり、叔父(従叔父)の王昶に養われた。王昶は叔父が父のように王沈を養育したため、王沈は継母や兄嫁に孝行を尽くした。[[大将軍]][[曹爽]]の掾属となり、中書門下侍郎なった。曹爽が殺されると免職なったが、後に治書侍御史・秘書監となっして復帰した。
 
[[曹髦]](高貴郷公)が[[皇帝]]となると、王沈は曹髦に「文籍先生」と呼ばれ、散騎常侍・[[侍中]]・典著作となった。曹髦は[[司馬望]]・王沈・[[裴秀]]・[[鍾会]]らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。
 
この頃、王沈は[[荀顗]]・[[阮籍]]とともに『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』を編纂したが、時勢に多々配慮した内容であり、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に内容で劣ると言われている。[[劉知幾]]は『[[史通]]』曲筆篇の中で王沈が時流におもねった記述をしたことを責め、[[陳寿]](劉知幾は[[蜀|蜀漢]]正統論者であるが、陳寿蜀漢の遺臣でありながら『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』で魏を正統としたことなど)とともに「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と吐き捨てている。
 
[[260年]]、[[司馬昭]]の専横に憤った曹髦は司馬昭を討伐する計画を立て、王沈・[[王業]]・[[王経]]に計画を打ち明け協力を要請した。しかし、王沈・王業司馬昭に密告したために、司馬昭は警備を強化した。曹髦は側近や寄せ集めの[[近衛兵]]を率いて、司馬昭にクーデターを起こしたが、司馬昭の側近[[賈充]]に殺された。この事で王沈は不忠の者であるとして大いに批判された。王沈は[[尚書]]・監[[豫州]]諸軍事・奮武将軍・豫州[[刺史]]となった。
 
その後、征虜将軍・持節・[[都督]]江北諸軍事・博陵[[侯]]となり、魏が蜀漢を平定した時は対[[呉 (三国)|呉]]防衛に貢献した。
 
[[司馬炎]]がになるを継ぐと、[[御史大夫]]・守[[尚書令]]・[[給事中]]なった。司馬炎が皇帝となる時、[[羊コ|羊祜]]・[[荀勗]]・裴秀・賈充とともに中心的役割を果たした。また司馬炎が皇帝とな即位すると、[[驃騎将軍]]・[[録尚書事]]・散騎常侍・統城外諸軍事となっに昇進した。また、博陵郡[[公]]に封じられたが、固辞して受けなかった。
 
[[266年]]、死去した。[[諡号]]は郡公。
 
{{DEFAULTSORT:おう しん}}