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'''アサンドロス'''(希:Άσανδρoς、ラテン文字転記:Asandros、英:Asander、[[紀元前4世紀]]、生没年不明)は[[アレクサンドロス3世]]に仕えた[[将軍]]であり、の死後の[[ディアドコイ]]の一人である。
 
== アレクサンドロスの下で ==
アサンドロスは[[マケドニアのフィロタス|フィロタス]]の子であり、[[フィリッポス2世]]、アレクサンドロス3世の二代に亘って仕えた重臣[[パルメニオン]]の兄弟である。彼はアレクサンドロスの東征に参加し、[[紀元前324年]]の[[サルディス]]無血占領時には王によって[[スピトリダテス]]([[アケメネス朝|ペルシア]]王[[ダレイオス3世]]下の[[リュディア]]・[[イオニア]][[サトラップ|太守]])の太守領であったリュディアとその他の太守に任じられ、同時に支配を維持するのに十分なだけの[[騎兵]]と[[ペルタスト|軽装歩兵]]とその指揮権もまた与えられた<ref>アッリアノス, I. 17</ref>[[紀元前328年]]の初めにはアサンドロスと[[ネアルコス]](当時は[[リュキア]]、[[パンピュリア]]太守)はギリシア人[[傭兵]]をその時[[ザリアスパ]]にいた王の元まで引率してきた。<ref>ibid, IV. 7</ref>
 
アサンドロスは[[マケドニアのフィロタス|フィロタス]]の子であり、[[フィリッポス2世]]、アレクサンドロス3世の二代に亘って仕えた重臣[[パルメニオン]]の兄弟である。彼はアレクサンドロスの東征に参加し、[[紀元前324年]]の[[サルディス]]無血占領時には王によって[[スピトリダテス]]([[アケメネス朝|ペルシア]]王[[ダレイオス3世]]下の[[リュディア]]・[[イオニア]][[太守]])の太守領であったリュディアとその他の太守に任じられ、同時に支配を維持するのに十分なだけの[[騎兵]]と[[ペルタスト|軽装歩兵]]とその指揮権もまた与えられた<ref>アッリアノス, I. 17</ref>[[紀元前328年]]の初めにはアサンドロスと[[ネアルコス]](当時は[[リュキア]]、[[パンピュリア]]太守)はギリシア人[[傭兵]]をその時[[ザリアスパ]]にいた王の元まで引率してきた。<ref>ibid, IV. 7</ref>
 
== アレクサンドロス死後 ==
 
[[紀元前323年]]のアレクサンドロスの死後の帝国の属領と地位の分割([[バビロン会議]])では、アサンドロスは[[カリア]]の太守位を得た<ref>ディオドロス, XVIII. 3</ref>。[[摂政]]の[[ペルディッカス]]と彼に不満を持つ諸将との間で戦争が起こると、[[アンティパトロス]]によって派遣されたアサンドロスはペルディッカス派の将軍[[アッタロス (アンドロメネスの子)|アッタロス]]、[[アルケタス (オロンテスの子)|アルケタス]]と戦ったが、彼らに敗れた<ref>フォティオス, cod. 92</ref>。ペルディッカス死後の[[紀元前321年]]に開かれた[[トリパラディソスの軍会]]でアサンドロスはこれまでの地位を維持した<ref>ディオドロス, XVIII. 39</ref><ref>フォティオス, cod. 92</ref><ref>ユスティヌス, XIII. 4</ref>。
 
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== 註 ==
 
 
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== 参考文献および参考URLサイト ==
*[[アッリアノス]]著、大牟田章訳、『アレクサンドロス大王東征記』(上)(下)、[[講談社]]、2001年
* [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Diodorus_Siculus/home.html ディオドロスの『歴史叢書』の英訳版]