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[[File:Murshidabad.gif|200px|thumb|right|ベンガル太守の居城]]
[[File:1776 Rennell - Dury Wall Map of Bihar and Bengal, India - Geographicus - BaharBengal-dury-1776.jpg|thumb|300px|right|ベンガル太守の支配領域地図]]
'''ベンガル太守'''(- ベンガルたいしゅ、英語:Nawab of Bengal)は、[[ムガル帝国]]の東[[インド]]、[[ベンガル地方]](現在の[[バングラデシュ]]と[[西ベンガル州]]、[[ビハール州|ビハール]]の一部を指す)の地方長官、つまり太守([[ナワーブ]])のことである。[[18世紀]]には、ビハール地方の大部分、[[オリッサ|オリッサ地方]]も支配した。首府は[[ダッカ]]、[[ムルシダーバード]]、[[ムンガー]]。
 
==設置==
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こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月23日]]、三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した([[ブクサールの戦い]])。
 
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いであり、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
 
その後、イギリスのベンガル知事クライヴ(1765年[[3月]]に帰国し、ベンガル知事に再任していた)は戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌[[1765年]][[8月16日]]に[[アラーハーバード条約]]が締結され、イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州の[[ディーワーニー]]を獲得した。
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ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。
 
一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、[[1774年]]頃からデリーに住み、[[1777年]][[5月8日]]に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために、その衣服を売らなければならなかった)
 
===ベンガルの藩王国化とインド併合===