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[[File:Murshidabad.gif|200px|thumb|right|ベンガル太守の居城]]
[[File:1776 Rennell - Dury Wall Map of Bihar and Bengal, India - Geographicus - BaharBengal-dury-1776.jpg|thumb|300px|right|ベンガル太守の支配領域地図]]
'''ベンガル太守'''(- ベンガルたいしゅ、英語:Nawab of Bengal)は、[[ムガル帝国]]の東[[インド]]、[[ベンガル地方]](現在の[[バングラデシュ]]と[[西ベンガル州]]、[[ビハール州|ビハール]]の一部を指す)の地方長官、つまり太守([[ナワーブ]])のことである。[[18世紀]]には、ビハール地方の大部分、[[オリッサ|オリッサ地方]]も支配した。首府は[[ダッカ]]、[[ムルシダーバード]]、[[ムンガー]]。
 
==設置==
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だが、ムルシド・クリー・ハーンはムガル帝国に対し、一応ベンガル地方の税収は払っており、[[1717年]]に皇帝ファッルフ・シヤルより、正式にベンガル太守(在位1717 - 1727)に任命された。
 
しかし、同年、ファッルフシヤルはイギリスに対し、ベンガルにおける[[関税]]の免除特権をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった。
 
===独立===
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[[画像:Robert-clive.png|thumb|200px|ロバート・クライブ]]
 
即位後、シラージュ・ウッダウラは、ガシティー・ベーグムに味方した[[ダッカ]]市長[[フセイン・クリー・ハーン]]を殺害し、彼女ガシティー・ベーグムは後任の市長に[[ラージャ・ラージ・バラフ]]を任命していた。そのため、シラージュ・ウッダウラは、ラージャ・ラージ・バラフが[[公金]][[横領]]したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子の[[クリシュナ・ダース]]はイギリスのカルカッタに逃げ込んだ。
 
ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは、イギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築に不服であり、イギリス東インド会社及びその職員が行ってきた勝手な私貿易は、ベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。また、クリシュナ・ダースの引き渡しを要求した
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同年[[5月]]、シラージュ・ウッダウラは従兄弟ショーカット・ジャングの討伐のため進軍中だったが、その道中にこのイギリスの返答を聞き激怒し、イギリス人をベンガルから追い出すことを決定した。
 
まず、シラージュ・ウッダウラは手始めに首都ムルシダーバードのイギリス工場を襲い、工場長などを捕虜にし、同年[[6月]]半ば、[[シラージュ・ウッダウラ]]はフランスの支持を受けてカルカッタを攻撃し占領、イギリス人をカルカッタから追放した。
 
その後、カルカッタのウィリアム要塞を包囲し軍15000、象軍500、50門の大砲で攻め続け、ベンガル軍の総司令官[[ドレーク]]は逃げ、副司令官[[ホルウェル]]と要塞の兵は降伏したが、その夜、イギリス兵捕虜146名がウィリアム要塞内の「ブラックホール」と名づけられた小さな牢獄に収容され、結果123名が窒息死する事件が起こった。
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一方、[[ベンガル知事]]に任命されたクライヴは、ミール・ジャーファルから毎年30000[[ポンド]]の謝礼を受けたが、のちにこれは彼が本国に帰国したとき不正蓄財として裁判で争われることとなり、クライヴの破滅にもつながった。
 
また、ベンガル太守ミール・ジャーファルとイギリスの間に結ばれた事前の秘密協定では、彼をベンガル太守とする代償として、イギリス東インド会社にチッタゴン、[[ミドナプル]]、[[ブルドワーン]]を割譲し、会社に2250万[[ルピー]]、会社役員には580万ルピー、あわせて総額2830万ルピーを支払われることとされていた。
 
しかし、ミール・ジャーファルがあてにしていたムルシダーバードの金庫は、前太守シラージュ・ウッダウラが使い果たしており、その支払いの履行は厳しく、結局、ミール・ジャーファルはイギリスに半分は支払ったものの、残り半分は年3回の分割払いとすることでクライヴも了承した。
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しかし、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。
 
また、ミール・カーシムは、イギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめていると、これらも併せてイギリスに抗議した。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、イギリスが徴税権を持つ土地において、地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたリ、イギリスが徴税権を持つカルカッタなどの土地において、税が支払えない農民から強制的に土地を取り上げたりしているというものだった(通常、税が払えなくても財産である土地を取り上げられることはなく、鞭打ちの刑にあうだけだった)。
 
だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。
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これに対し、ミール・カーシムは、「すべての要求を受け入れる余裕用意はあるが、唯一の条件はベンガルからすべてのイギリス人兵士がいなくなることだ。」と言い、折り合いがつかなかった。
 
時を同じくして、[[パトナ]]にあるイギリス工場の工場長[[エリス]]は、関税をめぐってベンガルとトラブルを起こし、腹いせにパトナにある太守の要塞を攻撃し、パトナの町を占拠し略奪をほしいままにしたが、ミール・カーシムはすぐさまパトナに軍勢を送り、エリスの工場を焼き払わせ、エリスを降伏させた。
 
この時、ミール・カーシムは、伝言を伝えたのちにカルカッタへ帰還しつつあったアミャットの船の拿捕を命じたが、アミャットが抵抗しため砲撃戦となり、アミャット以下多数の乗組員が戦死した。
 
この事件は、悪化の一途をたどっていたミール・カーシムとイギリスの関係に終止符を打ち、同年[[7月]]初め、イギリス側は前太守ミール・ジャーファルの再任(位1763 - 1765)を決定した。
 
この決定に対し、ミール・カーシムはついにイギリスの横暴に対する怒りが爆発し、彼はイギリスとの戦争を決意し、ミール・カーシムの軍とイギリス東インド会社軍がムルシダーバード付近で両軍が激突するに至った。
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ミール・カーシムの軍が50,000を超す大軍であるのに対し、イギリス軍はヨーロッパ人1000とインド人傭兵4000からなる兵5000と、ミール・カーシム軍のほうが圧倒的有利だったが、ミール・カーシム軍にはイギリスと内通している者が少なくはなく、プラッシーのときと同様に裏切られ惨敗し、ムルシダーバードはイギリスに占拠されてしまった。
 
こののち、ミール・カーシムは何度かイギリスと交戦したが、いざという時にいつも味方に裏切られ惨敗し、敗北が続き、ミール・カーシムは首都ムンガーにおいて、捕虜にした内通した者たちに重石をつけ、[[ムンガー要塞]]から[[ガンジス川]]へ放り投げた。
 
その後、ミール・カーシムは部下の[[アラブ・アリー・ハーン]]にムンガー要塞をまかせ、自身はパトナに向かうことにしたが、このアラブ・アリー・ハーンもイギリスと内通しており、すぐにイギリスにムンガー要塞を明け渡したため、ミール・カーシムは激怒し、イギリス人捕虜を女子供に至るまで皆殺しにした。
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ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。
 
こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月23日]]、三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にある[[ブクサール]](バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した([[ブクサールの戦い]])。
 
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いであり、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
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[[1781年]]、ベンガル太守はイギリスに徴税権、裁判権など内政権を奪われ、ムガル帝国の名目的主権から事実上外され、ムルシダーバードとその周辺のみを支配するだけとなり、[[藩王国]]化した(ベンガル藩王国)。
 
[[1880年]][[12月]]、[[マンスール・アリー・ハーン]]の退位後、ベンガル藩王国はイギリスによりムルシダーバード藩王国に改称させられた。

[[1947年]][[8月15日]]、[[インド・パキスタン分離独立]]時、ムルシダーバード藩王国は現在の[[西ベンガル州]]にあったことから、[[インド]]に併合された。
 
==歴代君主==
[[File:Ali Jah.jpg|thumb|right|150px|ザイヌッディーン・アリー・ハーン]]
[[File:Nawab Nazim Humayun Jah.jpg|thumb|right|150px|ムバーラク・アリー・ハーン]]
[[File:Wasif Ali Mirza Khan Bahadur.jpg|thumb|right|150px|ワーシフ・アリー・ミールザー・ハーン]]
*ムルシド・クリー・ハーン(Murshid Quli Khan, 在位1717 - 1727)
*シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン(Shuja-ud-Din Muhammad Khan, 在位1727 - 1739)
*サルファラーズ・ハーン(Sarfaraz Khan, 在位1739 - 1740)
*アリー・ヴァルディー・ハーン(Ali Vardi Khan, 在位1740 - 1756)
*シラージュ・ウッダウラ(Siraj ud-Daula, 在位1756 - 1757)
*ミール・ジャーファル(Mir Jafar, 在位1757 - 1760)
*ミール・カーシム(Mir Qasim, 在位1760 - 1763)
*ミール・ジャーファル(Mir Jafar, 復位1763 - 1765)
*ニザーム・ウッダウラ(Nizam ud-Daula, 在位1765 - 1766)
*サイフ・ウッダウラ(Saif ud-Daula, 在位1766 - 1770)
*アシュラーフ・アリー・ハーン(Ashraf Ali Khan, 在位1770 - 1793)
*アズド・ウッダウラ(Azud ud-Daula, 在位1793 - 1810)
*ザイヌッディーン・アリー・ハーン(Zain-ud-Din Ali Khan, 在位1810 - 1821)
*アフマド・アリー・ハーン(Ahmad Ali Khan, 在位1821 - 1824)
*ムバーラク・アリー・ハーン(Mubarak Ali Khan, 在位1824 - 1838)
*マンスール・アリー・ハーン(Mansur Ali Khan, 在位1838 - 1880)
*ハッサン・アリー・ミールザー・ハーン(Hassan Ali Mirza Khan, 在位1880 - 1906)
*ワーシフ・アリー・ミールザー・ハーン(Wasif Ali Mirza Khan, 在位1906 - 1947)
 
==参考文献==