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[[中平]]2年([[185年]])に、[[韓遂]]らが[[羌]]族と共に反乱を起こした際、討伐に遣わされた[[皇甫嵩]]が[[烏桓]]の兵3000を要請したのに対し、[[鄒靖]]は「烏桓は弱いので、[[鮮卑]]より兵を募るべきだ」と進言した。そのことについて議論した際、応劭は「鮮卑は漢に心服しておらず制御できないので、反乱しなかった羌族から兵を募る方が良いのでは」と主張したため、その意見が採用された。
 
その後、[[州]]の[[泰山]]太守となった。[[初平]]2年([[191年]])、[[黄巾賊]]30万が郡の境界に侵入してきたが、応劭は郡の文官・武官を率いて賊と戦い、全部で首級数千・捕虜一万余り、輜重二千輌の戦果を挙げた。このことで賊が退却し郡内は危機を免れた。
 
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、[[曹操]]の父[[曹嵩]]が避難していた[[徐州]]の瑯邪から泰山へ入った際、応劭は兵を遣わし彼を迎えようとしたが、それまでの戦いで曹操を恨んでいた[[陶謙]]が、騎兵を送って曹嵩を攻撃させたため、応劭の兵が合流する前に郡の境界で曹嵩を死なせてしまった。応劭は曹操に殺されるのを怖れ郡を捨て、[[袁紹]]の元へ逃げた。