「ギリシャの歴史」の版間の差分

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オレンジ色の箇所は[[前281年]]の時点では係争中であり、[[ペルガモン王国]]がこの地域の一部を占領した。[[インド・グリーク朝]]は表示していない。
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この時代は古典期と比べ、亜流の時代として低く見られることがあるが、この時代にアレクサンドロス大王が東征を行ったことにより、ギリシャ文化が東へ広がりを見せることとなった。しかし、ギリシャ本土では地域的な争いが生じたことで、政情は極めて不安定であった<ref name="S30">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.30]].</ref>。
 
==== ディアドコイ戦争 ====
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前3世紀、イタリアを統一、さらに[[第一次ポエニ戦争]]([[紀元前264年]]-[[紀元前241年]])の勝利で勢いにのるローマは、[[紀元前229年]]に第一次{{仮リンク|イリュリア戦争|en|Illyrian Wars}}に参加し、マケドニアと友好関係を結んでいた[[イリュリア]]を撃破、さらに[[紀元前219年]]の第二次イリュリア戦争にも勝利を収めたが、これにより直接的ではないが、以降、ローマがギリシャへ接触を持つこととなる<ref name="G125">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.125]].</ref>。
 
この時代は[[マケドニア王国]]の活躍のためにポリスの影が薄くなるが、基本的に古典期からローマ時代までポリスは維持されていた。しかし、ヘレニズム時代においてその限界は明らかになっており、ポリスをいう枠を超えて前3世紀頃、ギリシャ最後の勢力として[[アエトリア同盟]]や[[アカイア同盟]]が形成され、アケドニア、シリア、ローマらと時には連携し、時には対立しながら重要なファクターと化していた。これらの連邦が形成された地域は主に古典期では後進地とみなされていたギリシャ北西部(アトリア連邦同盟)、ペロポネソス半島北部(アカイア連邦同盟)である。
 
[[紀元前261年]]、マケドニアはギリシャへ進出して「{{仮リンク|クレモニデス戦争|en|Chremonidean War}}{{#tag:ref|プトレマイオス朝エジプトの支援を受けたアテナイ、スパルタ同盟軍がマケドニアに対して[[紀元前267年]]ごろ蜂起した戦い。[[紀元前261年]]にアテナイが降伏して戦争は終了した。戦いの名称はアテナイで同盟を提唱したクレモニデスにちなんでいる<ref name="G117">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.117]].</ref>。|group=#}}」に勝利した。
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[[フィリッポス5世]]率いる[[マケドニア王国]]は[[カルタゴ]]の[[ハンニバル|ハンニバル・バルカ]]と同盟を結び、[[紀元前214年]]にローマ帝国との{{仮リンク|第一次マケドニア戦争|en|First Macedonian War}}に巻き込まれた<ref name="G118-9">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.118-119]].</ref>。
 
[[アエトリア同盟]]は、デルフォイの[[アンフィクティオニア]](隣保同盟)の主導権を獲得してギリシャ中心部へ進出し、ローマが進出すると初期は友好関係を結んだ。
 
前201年、苦難の末に第二次ポエニ戦争に勝利したローマは東への進出を開始、マケドニアがシリアと同盟を組んでプトレマイオス朝への攻撃を行うと、プトレマイオス朝はローマへ支援を要請、ローマはマケドニアへ軍を進めた。{{仮リンク|第二次マケドニア戦争|en|Second Macedonian War}}(前200年 – 前197年)で、アエトリア同盟はローマの勝利に貢献し、マケドニアは大敗北を喫し、ギリシャから撤退した。この時、ローマのギリシャ担当官フラミニヌスは『すべてのギリシャ人の自由』を宣言、ギリシャ人たちはこれを喜んで受け入れたが、これはローマにおける『自由』でしかなかった<ref name="G126-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.126-127]].</ref>。
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その後しばらく、平穏な時期が続いたが、フィリッポス5世の後を継いだマケドニア最後の王、ペルセウスは積極的に勢力拡大を謀ったため、ローマはこれを攻撃し、「[[第三次マケドニア戦争]]」([[紀元前171年]]-[[紀元前168年]])が勃発した。 [[紀元前168年]]、[[ピュドナの戦い (紀元前168年)|ピュドナの戦い]]で[[アンティゴノス朝|アンティゴノス朝マケドニア]]は滅亡した。
 
この時代は古典期と比べアレクサンドロス大王死後亜流の時代極めて混沌として低く見られることがあるがおりプレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリア時代にようなアレクサンドロス大王が東征の遺産行ったことより、ギリシャ文化が東へ広がりした国や古典期の自治見せるこなっする都市国家も存在した。かし、ギてアエトシャ本土では地域的ア同盟や[[アカイア同盟]]のよう争い種族を中心とした国家生じ活躍しことで、政情は極めて不安定時代あった<ref name="S30-1">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、ppp.30-31]].</ref>。
 
この時代はアレクサンドロス大王死後、極めて混沌としており、プレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリアのようなアレクサンドロス大王の遺産を下にした国や古典期の自治を保とうとする都市国家も存在した。そしてアエトリア同盟やアカイア同盟のような種族を中心とした国家が活躍した時代でもあった<ref name="S30-1">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.30-31]].</ref>。
 
アカイア同盟は、ローマが進出してペロポネソス半島の統一に成功した。しかしローマの隆盛によって、マケドニア王国とアカイア同盟はローマに打ち負かされ、ローマの版図に組み込まれる。