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*国外事情に通じていた長輝は、後年活躍する多くの志士の思想に影響を与え、長州藩士の[[伊藤博文|伊藤俊輔(後の博文)]]など奇しくも倒幕派の若者たちに支持されていた。たとえば[[坂本龍馬]]は長州藩支藩の長府藩士で、寺田屋で襲撃を受けた際の同士である[[三吉慎蔵]]に、慶応3年2月16日に送った書簡で次のように神保を高く評価している。
 
  「長崎て会津の神保修理に面会。会津にはニハおもいがけぬ人物てありたり」(宮地佐一郎『龍馬の手紙』)
 
  ただし、こうした西方の志士との接触が多かったことが官軍と通じていたのではないか、という疑念を生み長輝の恭順の態度が非難されるきっかけともなったとされる。
*自刃の前日、『一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ。』という心情を綴った詩を勝海舟に贈っている。海舟もまた、長輝の死を悲しみ貴重な逸材を失ったことを惜しんだ。『旧会津藩先賢遺墨附伝』
*妻・雪子との夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、長輝も雪子に対して愛情を注ぎ周囲からも羨望の的であった。夫の自刃後、雪子もまた同年8月の会津戦争において薙刀を手に娘子隊に参戦したといわれるが、父の井上丘隅から夫の後を追えと実家に迎えられず彷徨中に大垣藩の捕虜となったすえ(凌辱されたという説もある)、土佐藩士の担当短刀を借りて壮絶な自決を遂げている。
 
== 登場作品 ==