「山城国一揆」の版間の差分

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=== 幕府との関係 ===
当時の[[室町幕府]]では、応仁の乱とその後の混乱で失われた幕府の経済的基盤の再建に、お膝元である山城国の[[御料所|御料国]]化を進めると共にていたため、同国が有力守護の支配下に入る事を望んでいなかった。このため、[[管領]][[細川政元]]らはこの動き一揆に対して静観の姿勢を取った。また、「三十六人衆」の中には一揆以前より畠山氏と対抗する形で[[細川氏]]との被官関係を結んでいる者が含まれていたと言われている。
 
文明18年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1486年]][[6月27日]])には、幕府[[政所]][[執事]][[伊勢貞宗]]の嫡男[[伊勢貞陸|貞陸]](後に執事職を継承)が守護に補任された。幕府及び[[伊勢氏]]は一揆側に一定の政治権限([[検断沙汰|検断]]権・[[半済]]権など)を認める一方、畠山氏が持っていた[[守護請]]の権限を継承した。また、必要に応じて守護役の徴収を国人達に求め、一揆側がこれに応じる場合もあった(『[[大乗院寺社雑事記]]』長享元年6月22日条・明応2年2月5日条)。当時の室町幕府は[[長享・延徳の乱]]や[[畠山義豊|畠山基家]]討伐に見られるような兵力を動員できるだけの軍事力を依然として持っていたものの、幕府の本拠地である京都の目の前で発生した山城国一揆を鎮圧する姿勢を示さなかった。これは国人達が室町幕府や[[守護領国制]]自体を否定するために一揆を起こしたものではなく、両者の利害が直ちに対立するものではなかったからと考えられている。