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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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'''観戦武官'''(かんせんぶかん)とは、第三国の戦争を観戦するために派遣される[[武官]]。
この制度の起源は明らかではないが、[[傭兵]]ではない、国家による軍隊が必要であること、[[士官学校]][[国際法]]などの制度の成立が不可欠であることから、およそ19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。
 
日本では、1870年に[[普仏戦争]]を[[大山巌]]が観戦している。また、1898年の[[米西戦争]]では[[秋山真之]]海軍大尉(後に中将。海軍戦術、『坂の上の雲』で有名)・[[柴五郎]]陸軍少佐(後の大将。[[義和団の乱]]では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
 
[[日露戦争]]の際には日露両国に対して欧米諸国から多数の観戦武官派遣の申し入れがあり、日本は[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[スペイン]]、[[イタリア]]、[[スイス]]、[[ノルウェー]]及び[[スウェーデン]]([[スウェーデン=ノルウェー]]連合解消の時期と重なる)、[[ブラジル]]、[[チリ]]、[[アルゼンチン]]、[[オスマン帝国]]といった13の国々から70人以上の武官を迎えたと記録されている。その内、先に[[日英同盟]]を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている<ref>{{Cite web
|url=http://library.tuins.ac.jp/kiyou/2008kokusai-PDF/0803yokoi.pdf
|title=あるトルコ軍人の日本論|author=横井敏秀|publisher=富山国際大学|format=PDF
|accessdate=2009-01-22}}</ref><ref>安岡昭男. "[http://ci.nii.ac.jp/naid/40006056582/ 日露戦争と外国観戦武官]"</ref>。特にイギリスのサー・イアン・ハミルトン陸軍中将(後の[[第一次世界大戦]]で[[ガリポリの戦い]]で地中海遠征軍を指揮)、ペケナム海軍大佐(後に大将。[[朝日 (戦艦) |朝日]]に乗艦しての報告は[[フィッシャー|フィッシャー]]提督の目に留まり、[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]の設計に取り入れられた)、アメリカの[[アーサー・マッカーサー・ジュニア|マッカーサー]]陸軍少将(後に中将。[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]][[GHQ]]最高司令官の父)、ドイツの[[マックス・ホフマン|ホフマン]]陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀として[[タンネンベルクの戦い]]を勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。
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<ref>安岡昭男. "[http://ci.nii.ac.jp/naid/40006056582/ 日露戦争と外国観戦武官]"</ref>。特にイギリスのサー・イアン・ハミルトン陸軍中将(後の[[第一次世界大戦]]で[[ガリポリの戦い]]で地中海遠征軍を指揮)、ペケナム海軍大佐(後に大将。[[朝日 (戦艦) |朝日]]に乗艦しての報告は[[フィッシャー|フィッシャー]]提督の目に留まり、[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]の設計に取り入れられた)、アメリカの[[アーサー・マッカーサー・ジュニア|マッカーサー]]陸軍少将(後に中将。[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]][[GHQ]]最高司令官の父)、ドイツの[[マックス・ホフマン|ホフマン]]陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀として[[タンネンベルクの戦い]]を勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。
 
[[第一次世界大戦]]では、イギリスの巡洋戦艦[[クイーン・メリー (巡洋戦艦)|クイーン・メリー]]に乗艦して観戦していた[[下村忠助]]海軍中佐が[[ユトランド沖海戦]]で戦死している。
 
観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの輸送手段の発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため、自然に消滅した。