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ハーキムは幼くして即位し、[[スラヴ人]]の[[宦官]]バルジャワーンに後見されたが、バルジャワーンは後見人の立場を利用して宰相([[ワズィール]])に就任、ハーキムに監禁同然の生活を強いて政権を自由にした。成長したハーキムは、即位から5年後の16歳のときバルジャワーンを刺殺、自ら専制的な権力を握った。
 
ハーキムはファーティマ朝の[[イデオロギー]]である[[イスマーイール派]]を強調し、自らイマームとして積極的に教義の研究や、宣教活動を推進した。イスマーイール派のための宗教施設の建設、寄進を盛んに行い、ファーティマ朝時代を代表する建築物と言われる[[カイロ (エジプト)|カイロ]]の[[ハーキム・モスク]]をはじめとする多くの[[モスク]]が建設された。王朝の外でも、ハーキムの治世にイスマーイール派はファーティマ朝の支配版図からはるかに東の[[イラク]]、[[イラン]]から[[中央アジア]]に広まり、イスマーイール派の盟主としてのファーティマ朝の威信は高まった。
 
また、学芸も保護し、カイロに「知恵の館([[ダール・アル=イルム]])」と名づけられた教育・研究機関を創立し、カリフの私財を投じて学問を保護した。ハーキムのもと、カイロでは[[ヘレニズム]]時代を通してエジプトに伝えられた[[古代ギリシア]]の学問と、[[バグダード]]から伝えられた最新のイスラムの伝統学問の最高峰の研究が行われた。カイロ学派と呼ばれるこの時代の[[アラビア科学]]では自然科学分野の発展がめざましく、[[光学]]の分野で後世に多大な影響を与えた[[イブン=ハイサム]]らの優れた学者が輩出された。