「士族反乱」の版間の差分

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'''士族反乱'''(しぞくはんらん)は、[[日本]]の[[明治]]初期に旧[[武士]]階級であった[[士族]]が[[明治政府]]に対して起こした一連の反政府活動である。
 
[[江戸時代]]後期に[[開国]]し、[[王政復古 (日本)|王政復古]]により成立した明治政府は[[四民平等]]政策のもと、[[大名]]、武士階級を廃止して[[華族]]、士族を創設する。[[秩禄処分]]により[[俸禄]](家禄)制度は撤廃され、[[廃刀令]]の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う[[文明開化]]、[[殖産興業]]政策による西洋技術・文化の輸入、[[朝鮮]]出兵を巡る[[征韓論]]で政府が紛糾し、[[明治六年政変]]で[[西郷隆盛]]、[[江藤新平]]、[[板垣退助]]らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「[[不平士族]]」と呼ばれる。
 
1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて[[反乱]]([[佐賀の乱]])し、1876年には熊本県で[[神風連の乱]]、呼応して福岡県で[[福岡藩#秋月藩|秋月藩]]士宮崎車之助を中心とする[[秋月の乱]]、10月には山口県で[[前原一誠]]らによる[[萩の乱]]など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877年には、政府の不正を正すためとの目論見で、最大規模の士族反乱が鹿児島県の私学校生徒ら旧[[薩摩藩]]の士族が中心になり[[西郷隆盛]]を大将に擁立して、過去に類を見ない[[西南戦争]]と呼ばれる国内では最大規模の[[内戦]]が勃発した。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し辛くも難を逃れたが、戦死者数は同等の死傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなり、この戦いが、その後の[[富国強兵]]の礎になる。また、現代に続く[[長州藩|長州]][[藩閥]]による[[官僚]][[政治]]を生むことにもなる。