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'''ヨハネス7世パレオロゴス'''(Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος, [[1370年]] - [[1408年]][[9月22日]])[[東ローマ帝国]][[パレオロゴス朝]]の[[皇帝]](在位[[1390年]][[4月14日]]-[[9月17日]])。[[アンドロニコス4世パレオロゴス]]と[[ブルガリア]]王女マリア-キラツァ一人息。中世ギリシア語読みではヨアニス7世パレオロゴス
 
帝位継承者の息子として生まれ育ったが、[[1373年]]、父が祖父に反逆して失敗したその巻き添えを食らい、幼少時に目潰しを受ける。幸いにもその処置は不完全なものであった為、父同様に後に視力は回復した。
父・アンドロニコス4世は実の父である[[ヨハネス5世パレオロゴス]]に対して何度も反乱を起こしたが、その反骨精神は息子であるヨハネス7世にも受け継がれていた。1390年、[[オスマン朝]]や[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の支持を得たヨハネス7世は祖父・ヨハネス5世に対して反乱を起こし、皇帝として即位したのである。
 
[[1376年]]、父アンドロニコス4世が帝の簒奪に成功すると、彼は共同皇帝・帝位継承者に引き上げられる。しかし、三年後に父と共に[[コンスタンティノポリス]]を追われ、[[トラキア]]沿岸のセリュンブリアに逃れ、[[オスマン朝]]の保護を受けた。
しかしこの即位に対して帝国の有力貴族の支持を得られず、ヨハネス7世は叔父の[[マヌエル2世パレオロゴス]](ヨハネス5世の次男)によって反撃を受け、逆に追放されてしまったのである。
 
[[1385年]]に父が死去すると、引き続きセリュンブリアに留まって権力奪取の機会を窺った。[[1390年]]、新たなオスマン朝君主[[バヤジット1世]](在位[[1389年]]-[[1403年]])と[[ジェノヴァ]]人の支援を受けて祖父を攻撃、首都から追放してコンスタンティノポリスに入城、4月14日に皇帝として戴冠した。しかし、彼の簒奪は父アンドロニコスの時以上にオスマン朝の力に依存しており、首都市民の支持は極めて低く、その為少数の臣下を動員し、皇帝に対する歓呼(皇帝即位時の慣例)を強制しなければならなかったほどであったと言われている。一方、祖父ヨハネス5世は[[ヴェネツィア]]の支援を受け、また[[テッサロニキ]]の陥落([[1387年]])後流浪していた叔父[[マヌエル2世パレオロゴス|マヌエル2世]]と合流してヨハネス7世を攻撃にかかった。支持していたはずのオスマン朝が手を引いた為、ヨハネス7世の政権は、9月17日、五ヶ月あまりであっけなく崩壊した。
 
父同様に首都を追われたヨハネスは、やはり同じようにオスマン朝に救われ、彼らの保護下にセリュンブリアに定着した。1397年にはかつての彼の支持者、ジェノヴァ人の[[レスボス島]]領主フランチェスコ2世ガッティルシオの娘エイレーネーと結婚した。二人の間には息子[[アンドロニコス5世パレオロゴス|アンドロニコス5世]]([[1400年]]-[[1407年]])が生まれている。また、後に[[コンスタンティノス11世ドラガセス]]の許で大公を務めたルカス・ノタラスの妻が彼らの娘であったという説もある。
 
[[1399年]]、オスマン朝に包囲された首都を離れて西欧に向かう事になったマヌエル2世は甥ヨハネス7世との和解に踏み切り、ヨハネスがマヌエル帝不在の間摂政を務める事で合意に達した。ヨハネスは包囲下で摂政を続けたが、日増しに強まるオスマンの圧力の前に、重臣達と密かに首都開城の交渉計画を練っていたとも言われている。
 
[[1402年]]の[[アンカラの戦い]]に於けるオスマン朝の敗北と解体は東ローマ帝国とコンスタンティノポリスを包囲の圧迫と滅亡の危機から解放した。急遽帰国したマヌエル2世はオスマン王子[[スレイマン]]と協定を結び、首都近郊のトラキア領土、テッサロニキと周辺沿岸地域の返還、歳費の支払いを取り付けた。そしてマヌエルはヨハネスに対して遠隔の飛び地テッサロニキの行政権委任を約束した。後にこの約束はヨハネスがオスマンとの開城交渉を進めていた事が露見して破棄された為に、岳父ガッティルシオとの連携でテッサロニキを軍事占領したとも言われている。この間の事情については不明な点が多いが、ともかくもヨハネスのテッサロニキ統治が開始された事は確かである。
 
[[1407年]]、息子で帝位継承者としていたアンドロニコスが夭折する。ヨハネスはこの息子に野心を託そうとしていたらしく、その死に失望して死期を早めたとも言われている。翌[[1408年]][[9月22日]]、ヨハネス7世はテッサロニキで死去した。マヌエル2世はすぐに市を確保してその行政を自分の三男[[アンドロニコス・パレオロゴス(セサロニキ専制公)|アンドロニコス]]専制公に委ねた。
 
ヨハネス7世は父アンドロニコス4世と並ぶ野心家として描写されるが、同時にオスマン朝とジェノヴァ人の傀儡でもあった。彼の野心の源は、恐らくは自らの目を潰された事、また父が失意の内に死んだ事に対する復讐心であったと思われる。
 
ヨハネス5世の死後、ヨハネス7世はマヌエル2世と和睦し、その後は摂政となってマヌエル2世に仕えた。
 
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