「ヤーセル・アラファート」の版間の差分
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| 代数 = 初
| 職名 = [[パレスチナ自治政府|大統領]]
| 就任日 = 1996年1月20日
| 退任日 = 2004年11月11日
| 副大統領 =
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1994年|ノーベル平和賞|中東へ平和を築く努力に対して<ref>"[http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1994/ The Nobel Peace Prize 1994]" NobelPrize.org</ref>}}
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'''ヤーセル・アラファート'''({{Lang-ar|ياسر عرفات}}、''Yāser ‘Arafāt''、英語表記: Yasser Arafat など、[[1929年]][[8月24日]] - [[2004年]][[11月11日]])は、[[パレスチナ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。パレスチナのゲリラ指導者で、天才的な戦術家として知られる。
[[パレスチナ自治政府]]大統領<ref>アラファートのパレスチナ自治政府における役職は英語で <span lang="en">President</span>、アラビア語では <span lang="ar">رئيس</span> (ra‘īs) という。
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アラファートには、軟禁状態となったころから健康不安の噂があった。また多数の敵を抱える状況から、シャロン首相は「アラファトは、ハマスのヤシン師と同様(イスラエルによって)暗殺されるかもしれない」と発言していた。アラファートは[[2004年]]10月10日に体調を崩し、10月15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分不良のために途中で退出して客人への対応もしなかった。10月19日にはエジプトから招かれた医師団が診察した。10月27日より嘔吐を繰り返すようになり、何度か意識を消失した。アラファートは、入院中に大統領府がイスラエル軍によって破壊され戻れなくなることを恐れていた。10月29日、体調の悪化を理由に治療のためヨルダン政府によりアンマン経由で[[フランス]]に移送されたが、[[11月11日]]午前3時30分にパリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した。アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。
アラファートの死後、諸外国が期待していたパレスチナの意思統一は遅々として進まず、イスラエルとの紛争はその後も継続している。アラファートの死因に関しては毒殺疑惑があり、アラファートの妻がアラファートの遺品を[[アルジャジーラ]]に持ち込み、[[スイス]]の[[ローザンヌ研究所]]で検査した結果、アラファートの遺品から高濃度の放射性物質[[ポロニウム210]]が検出されたことから、アラファトの妻が毒殺説を主張しフランスの裁判所に刑事告訴した。パレスチナ自治政府はアラファートの死因究明のための遺体掘り返しと検体サンプルの採取を承認し、2012年11月27日、アラファートの墓を掘り返して遺体の検体を採取したこと、および、フランス、スイス、[[ロシア]]の科学捜査研究者が死因を鑑定すると公表し
== 脚注 ==
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