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顕慶2年([[657年]])、唐は謀落部を[[陰山都督府]]とし、熾俟部を[[大漠都督府]]とし、踏実力部を[[玄池都督府]]とし、各酋長を用いて都督とした。唐は後に熾俟部を分けて[[金附州]]を置く。三姓葛邏禄は東西[[突厥]]間に在って、常に趨勢を眺めて附叛を繰り返した。その後、南に移動して「三姓葉護(ウチュ・ヤブグ)」と号し、次第に強盛となり、[[廷州]]以西の諸突厥は皆これを畏れるようになった。
 
[[長安 (元号)|長安]]4年([[704年]])、唐は西突厥の[[阿史那懐道]](アシナ・カイドゥ)を十姓可汗兼[[濛池都護]]とし、[[阿史那献]]を磧西[[節度使]]に抜擢した。十姓部落の都擔が叛くと、阿史那献はこれを斬った。唐は碎葉(スイアーブ)以西の帳落3万を治めて内属させ、葛邏禄,[[胡屋]],[[鼠尼施]]の三姓もすでに内属した。東突厥の[[阿史那默啜]]が侵掠をなすと、唐は阿史那献を定遠道大総管とし、[[北庭都護]]の[[湯嘉恵]]らと挟撃させた。唐は[[{{仮リンク|突騎施]]|en|Turgesh}}(テュルギシュ)都督の車鼻施啜[[蘇禄]]を順国公としたが、突騎施はすでに撥換城と大石城を包囲して四鎮を取ろうとしたので、湯嘉恵を安西副大都護に拝して三姓葛邏禄の兵を発し、阿史那献と共にこれを撃たせた。
 
[[開元]]([[713年]] – [[741年]])の初め、カルルクは再び唐に来朝した。