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こういった時代にようやく終止符が打たれ、エラムに新たな時代が訪れるのは[[紀元前8世紀]]頃のことである。この頃新たに'''[[フンバンタラ朝]]'''(Humban-Tahrid dynasty)が成立して、一応の安定が達成された。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援した。バビロニアは[[紀元前8世紀|紀元前729年]]に[[ティグラト・ピレセル3世]]によって征服されていたが、その後エラムの支援の元で[[メロダク・バルアダン2世]]がアッシリアに反乱を起こし自立していた。アッシリア王[[サルゴン2世]]はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服したが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世はエラムに逃げ込み、エラム人は彼を匿った。そして、[[紀元前8世紀|紀元前703年]]頃、再び彼をバビロニア王に付けてアッシリアから離反させることを試み一時成功した。だが、[[センナケリブ]]王の遠征によってバビロニアは再併合された。
 
しかし尚もエラムはバビロニアの反乱勢力を支援して介入を続けた。新たに王位についた[[{{仮リンク|フンバンメナヌ3世]]|ru|Хумбан-нимена}}は[[紀元前7世紀|紀元前694年]]には、{{仮リンク|ネルガル・ウシェズィプ|en|Nergal-ushezib}}率いるバビロニアの反乱を支援して、アッシリアの王子、[[アッシュール・ナディン・シュミ]]を捕縛することに成功し、再びバビロニアを独立させた。これは更なるセンナケリブ王の遠征({{仮リンク|ハルールの戦い|en|Battle of Halule}})を招き、一時的にはアッシリア軍に対抗したものの、最終的にバビロニアはアッシリアの支配下に入りバビロニアに対するエラムの影響力確保は失敗した。
 
{{main|{{仮リンク|エラムの滅亡|en|Fall of Elam}}}}