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以下、乃木の略年譜を示す<ref name="oohama442">[[#大濱2010|大濱 2010]]、442頁以下、[[#佐々木2005|佐々木 2005]]、429頁以下参照。</ref>。
* 嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生
* [[安政]]5年([[1858年]])-  長府に帰郷。
* [[慶応]]元年([[1865年]])-  長府藩報国隊に入り[[奇兵隊]]と合流して幕府軍と戦う。
* [[明治]]4年([[1871年]]) - [[陸軍少佐]]に任官。名を希典と改める。
* 明治10年([[1877年]]) - [[歩兵第14連隊]]長心得として[[西南戦争]]に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた([[軍旗#軍旗の扱い|軍旗]]を参照)。
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=== 秋月の乱を鎮圧 ===
明治8年([[1875年]])12月、[[熊本鎮台]][[歩兵第14連隊]]長心得に任じられ、[[小倉市|小倉]]に赴任した。[[士族反乱|不平士族]]の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎([[前原一誠]]の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった<ref>[[#大濱2010|大濱 2010]]、48頁以下、[[#佐々木2005|佐々木 2005]]、125頁以下参照。</ref>。連隊長心得就任後、実弟の[[玉木正諠]](たまき  まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した<ref>[[#大濱2010|大濱 2010]]、54頁、[[#佐々木2005|佐々木 2005]]、125頁以下参照。</ref>。
 
明治9年([[1876年]])、[[宮崎車之助]]らによる[[秋月の乱]]が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、[[豊津]]においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた<ref>[[#福田2007|福田 2007]]、74頁以下参照。</ref>。
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なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない<ref>[[#別宮2009|別宮 2009]]</ref>。203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。
 
また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りする様な戦いとなり鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地に機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると如何に突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも塹壕への砲撃はそれ程相手を消耗させない事や予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能である<ref>歴史群像シリーズ、〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説  第一次世界大戦<上></ref>など第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった<ref>歴史群像シリーズ、〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説  第一次世界大戦<上></ref> 。
 
==== 水師営の会見 ====
[[ファイル:Nogi and Stessel.jpg|250px|thumb|[[水師営]]会見  中央二人が乃木将軍と[[アナトーリイ・ステッセリ|ステッセリ]]将軍(後列左4人目[[松平容保#家系|松平英夫]])]]
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)[[1月5日]]、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は[[水師営]]において行われたので、'''水師営の会見'''といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した<ref>[[#岡田2001|岡田 2001]]、162頁参照。</ref>。
 
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明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ<ref>、[[#佐々木2005|佐々木 2005]]、161頁参照</ref>。
{{quotation|<poem>いさをある人を教への親として  おほし立てなむ大和なでしこ</poem>}}
また明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる<ref>[[#福田2007|福田 2007]]、151頁参照。</ref>。
 
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[[日露戦争]]において「難攻不落」と謳われた[[旅順要塞]]を攻略したことから、[[東郷平八郎]]とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた<ref>[[#岡田2001|岡田 2001]]、285頁参照</ref>。
 
しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、[[明治天皇]]が崩御した際に[[殉死]]したことなど、その功績及び行為に対する評価は様々である。例えば[[司馬遼太郎]]は、著書『[[坂の上の雲]]』『[[殉死 (小説) |殉死]]』において、[[福岡徹]]は著書『[[#福岡1970|軍神  乃木希典の生涯]]』において乃木を「愚将」と評価した。他方で司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある<ref>[[#岡田2001|岡田 2001]]、[[#桑原2005|桑原 2005]]等を参照。</ref>。
 
乃木の軍人としての能力、特に、旅順攻囲戦における作戦指揮に関しては評価が分かれている。
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=== 司馬遼太郎への反論と乃木擁護論 ===
これに対し、乃木を擁護する論説として、[[福田恆存]]「乃木将軍は軍神か愚将か」(『中央公論』昭和45年12月臨時増刊号)などが発表された。特に、司馬遼太郎の主張に対する反論として、桑原嶽『[[#桑原2005|名将  乃木希典(第五版)]]』(中央乃木会、2005年)及び別宮暖朗『[[#別宮2006|旅順攻防戦の真実]]』(PHP文庫、2006年)があり、以下のように述べて乃木を擁護している。
# 司馬が乃木を批判するために引用したヴォーバンの『攻囲論』は、日露戦争当時既に200年を経過した理論であったため、これに従わなかったことをもって乃木を批判することは出来ない。乃木は、かえって当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であった<ref>[[#別宮2006|別宮 2006]]、93頁、346頁参照。</ref>。そもそもヴォーバンの「攻囲論」が書かれた時の要塞は背の高い城のような城壁を持ち、火砲は先込め式で鉄の塊を撃ち出すもの。銃火器も先込め単発というしろもので、旅順の様なベトンで被った保塁を鉄条網と塹壕で覆い、先込め式より強力で長射程、射撃間隔も短い銃火器や大砲を持つ日露戦争時の要塞とは異なり、内容も既に古臭い戦術となっていた。当時の要塞攻撃のベターとされていたのは第一次総攻撃で採用された様な強襲法や奇襲法であり、実際数年後の第一次世界大戦でのドイツ軍のリュージュ要塞攻撃や第二次世界大戦でのセバストポリ要塞攻撃でも強襲法が採用されている。司馬の言う「要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識」というのは全くの出鱈目である。
# 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた、歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない<ref>[[#別宮2006|別宮 2006]]、104頁以下参照。</ref>。また第三軍は第一次総攻撃失敗後に直ぐ様正攻法に作戦を変更して以後はその方法で旅順を攻めつづけている。「乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった」という司馬らの言説も実際の第三軍の運用を見る限り事実とは言えない。
# 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、作戦中は第三軍はそこで指揮を執っている。これは敵砲兵の有効射程内であり、戦況を手に取るように見える距離である。そのような距離であったから、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた<ref>[[#桑原2005|桑原 2005]]、117頁参照。</ref>。また児玉がそう批難したという確実な証拠もない。
# 旅順は全周囲を防御した要塞でありどの方向も同程度の防御力を有している。203203高地のある西北方面が手薄で東北方面が強固であったという事実はない。また第三軍に大本営より手渡されていた地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山等の保塁が臨時築城の野戦陣地となっている等)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える。
# 要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって乃木を批判することはできない。実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要している<ref>[[#桑原2005|桑原 2005]]、154頁、[[#別宮2006|別宮 2006]]、177頁、194頁以下、214頁以下参照。</ref>。仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられなかった<ref>[[#桑原2005|桑原 2005]]、137頁参照。</ref>。近代要塞での反撃の要は敵の攻撃目標の周囲にある各堡塁からの反撃射撃や予備兵力による逆襲である。仮に初期から攻め、ここを落としたとしても健全な周囲の堡塁からの反撃と未だ無傷の予備兵力の逆襲に会い直ぐ様奪い返されただろう。そのまま奪い合いとなり消耗戦となるが上記の様に西北方面には鉄道や主要道路がないので増援に手間取り失敗した可能性大で、現地を見ていない机上の空論といえる。また203高地を占領する以前から、南山坡山を観測所として、旅順艦隊に対する砲撃が行われていたし、総攻撃前に占領した大弧山からもある程度観測できており既に港湾への観測射撃は実行している。また旅順艦隊は第二次総攻撃前に既に壊滅していた。あと、第三軍の目的は要塞攻略による日本軍の後顧の憂いを断つことであり司馬らのいう「旅順要塞陥落は本来不要」というのは全くの誤り。また203高地攻略を反対し続けたのは乃木だけではなく、大山や児玉といった満州軍司令部で児玉が203高地攻略に賛成していたというのは創作である。上級司令部の満州軍が反対している以上、乃木第三軍が203203高地に目標を変更できないのは当たり前である。
# 旅順要塞に対して抑えの兵を残置し、乃木率いる第3軍は要塞を無視して北上することはできなかった。抑えの兵が不足していたからである。また、残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった<ref>[[#別宮2006|別宮 2006]]、132頁以下参照。[[#学習研究社1991|学習研究社 1991]]、101頁([[桑田悦]]執筆部分)も同旨。</ref>。この無視すればよいという話は開戦前の児玉の言動であり、実際に戦争が行われると無視することは出来ず攻略するしか方策がなくなったのでこの攻略戦が行われた。開戦時で旅順にはロシアの極東兵力の半分である2個師団が配備されており、日本軍の満州への補給の窓口である大連が旅順の目と鼻の先である以上、抑えの兵力は膨大になり(最低でも2~32-3個師団必要だが日本の手持ちの師団は1313個しかない)日本軍の許容できることではない。
# 大山巌が児玉源太郎に第3軍の指揮権を与えるという書簡を書いたこと自体、非常識で事実かどうかも疑わしい。また、児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、司馬が作品で描いているような28センチ榴弾砲の陣地変換と目標を203高地にするなどの事は行われていない。それどころか既に28センチ榴弾砲は全砲が203高地を砲撃していたし同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている。<ref>[[#桑原2005|桑原 2005]]、265頁以下参照。</ref>。203高地は児玉が来る以前に1度陥落しており、再奪取は時間の問題だった。また児玉自身、作戦立案を第3軍参謀に行わせており、それを承認した上で攻撃を開始しており、彼自身の立案だった訳でもない。修正はそれ程大きなものでは無く殆ど従来通りに行われたうえで占領している。
 
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; 凱旋
{{quotation|<poem>'''皇師百萬征強虜'''  (皇師百萬強虜を征す)
'''野戰攻城屍作山'''  (野戦攻城屍山を{{ルビ|作|な}}す)
'''愧我何顔看父老'''  ({{ルビ|愧|は}}ず我何の{{ルビ|顔|かんばせ}}あって父老に{{ルビ|看|まみ}}えん)
'''凱歌今日幾人還'''  (凱歌今日幾人か還る)</poem>}}
 
; 富岳を詠ず
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*轟号
*英号
*雷号 - 13歳と老齢となった折、明治36年([[1903年]])6月、[[乃木静子|静子夫人]]のつてで、[[岩手県]][[軽米]]の地主のもとで飼育されることとなり当地へ移送。種馬として250頭の子を残した。当地に同馬の墓が残っている。<ref>[http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2001/niida/6bu/niida_6bu_02.htm デイリー東北新聞社 新井田川漫歩 第6部 雪谷川水系・軽米 乃木将軍の愛馬  日清、日露両戦争に同行]参照</ref>
 
=== 作品 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|year=2002|month=9|title=政党政治と天皇|series=日本の歴史 第22巻|publisher=講談社|isbn=4-06-268922-7|ref=伊藤2002}}
** {{Cite book|和書|author=伊藤之雄|year=2010|month=4|title=政党政治と天皇  日本の歴史 22|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]] |isbn=978-4-06-291922-7|ref=伊藤2010}}
*{{Cite book|和書|first=スタンレー|last=ウォシュバン|authorlink=スタンレー・ウォシュバン|others=[[目黒真澄]]訳|year=1980|month=1|title=乃木大将と日本人|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=4-06-158455-3|url=http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1584553|ref=ウォシュバン1980}}
* {{Cite book|和書|author=大濱徹也|authorlink=大濱徹也|year=2010|month=12|title=乃木希典|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|isbn=978-4-06-292028-5|ref=大濱2010}}
* {{Cite book|和書|author=岡田幹彦|authorlink=岡田幹彦|year=2001|month=2|title=乃木希典――高貴なる明治|publisher=展転社|isbn=4-88656-186-1|ref=岡田2001}}
* {{Cite book|和書|author=桑原嶽|authorlink=桑原嶽|year=2005|month=9|origdate=1990-09|title=名将  乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す|edition=第5版|publisher=中央乃木会|isbn=|ref=桑原2005}}
* {{Cite book|和書|author=小堀桂一郎|authorlink=小堀桂一郎|year=2003|month=4|title=乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録|publisher=国書刊行会|isbn=4-336-04536-4|ref=小堀2003}}
* {{Cite book|和書|author=西郷隆盛|authorlink=西郷隆盛|coauthors=乃木希典|year=2006|month=4|title=西郷隆盛/乃木希典|publisher=新学社|series=新学社近代浪漫派文庫 3|isbn=4-7868-0061-9|ref=西郷乃木2006}}
508行目:
** {{Cite book|和書|author=蔡焜燦|year=2001|month=8|title=台湾人と日本精神(リップンチェンシン)――日本人よ胸をはりなさい|publisher=小学館|series=小学館文庫|isbn=4-09-402416-6|ref=蔡2001}}
* {{Cite book|和書|author=佐々木英昭|authorlink=佐々木英昭|year=2005|month=8|title=乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=4-623-04406-8|ref=佐々木2005}}
* {{Cite book|和書|author=志甫哲夫|year=2008|title=SPレコード  {{small|その限りない魅惑の世界}}|publisher=ショパン|isbn=978-4-88364-258-8|ref=志甫2008}}
* {{Cite book|和書|author=司馬遼太郎|authorlink=司馬遼太郎|year=1999|month=1|title=[[坂の上の雲]] 4|edition=新装版|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-710579-9|ref=司馬1999a}}
* {{Cite book|和書|author=司馬遼太郎|year=1999|month=2|title=坂の上の雲 5|edition=新装版|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-710580-2|ref=司馬1999b}}
518行目:
* {{Cite book|和書|author=乃木希典|editor=[[和田政雄]]編|year=1970|title=乃木希典日記|publisher=金園社|ref=乃木1970}}
* {{Cite book|和書|others=[[乃木神社]]・[[中央乃木會]]監修|year=2009|month=2|title=いのち燃ゆ――乃木大将の生涯|publisher=近代出版社|isbn=978-4-907816-24-7|ref=乃木神社2009}}
* {{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|coauthors=[[横山恵一]]・[[秦郁彦]]・[[原剛 (軍事史家)|原剛]]|year=2009|month=1|title=歴代陸軍大将全覧  明治篇|series=中公新書ラクレ 303|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-150303-9|ref=半藤ら2009}}
* {{Cite book|和書|author=福岡徹|authorlink=福岡徹|year=1970|title=軍神  乃木希典の生涯|publisher=文藝春秋|ref=福岡1970}}
* {{Cite book|和書|author=福田和也|authorlink=福田和也|year=2004|month=8|title=乃木希典|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-366210-3|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163662107|ref=福田2004}}
** {{Cite book|和書|author=福田和也|authorlink=福田和也|year=2007|month=8|title=乃木希典|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-759306-3|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167593063|ref=福田2007}}
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* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|year=1991|month=6|title=日露戦争――陸海軍、進撃と苦闘の五百日|series=歴史群像シリーズ 24|publisher=学習研究社|isbn=4-05-105609-0|ref=学習研究社1991}}
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|year=|month=|title=学び考える歴史|series=ニュータイプ中学歴史資料集|publisher=[[浜島書店]]|isbn=|ref=浜島書店}}
* {{Anchor|歴史街道2011-11|}}{{Cite journal|和書|year=2011|month=11|title=【総力特集】二〇三高地の真実  「旅順要塞」を陥落させた男たち|journal=歴史街道|issue=2011/10/06発売号|pages=pp. 14-77|publisher=PHP研究所|url=http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84283}}
 
== 関連項目 ==
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*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/160.html?c=7 乃木希典肖像]
*[http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/fushimi/fu-nogi/index.html 乃木神社]
*[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051c.htm#005 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観  宇多源氏【7】 《野木氏》系譜]
*[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/nogimaresukeshokann.html 国立国会図書館 憲政資料室 乃木希典宛書簡(伊藤保一氏旧蔵)]