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{{基礎情報 中国君主
|名 =李子通
|代数 =
|呼称 =皇帝
|画像 =
7行目:
|王朝 =呉
|在位期間 =[[619年]] - [[621年]]
|都城 =江都
|諱 =李子通
|字 =
|小字 =
|諡号 =
|廟号 =
|生年 =不詳
|没年 =[[武徳]]5年([[622年]]
|父 =
|母 =
|皇后 =
|陵墓 =
|年号 =[[明政]] : [[619年]] - [[621年]]
|注釈 =
}}
'''李 子通'''(り しつう)は[[隋|隋末]][[唐|唐初]]に割拠した群雄の一人。東海郡丞県(現在の[[山東省]]嶧県)の漁民の子として生まれた
 
== 生涯 ==
東海郡丞県(現在の[[山東省]]嶧県)の漁民の子として生まれた。[[大業]]末年、李子通は長白山の賊の[[左才相]]の下に身を寄せた。李子通は仁愛で知られ、帰順する者が多く、半年もたたずに一万人あまりを集めた。左才相にその名声を妬まれたため、その下を離れて[[淮水]]を渡り、[[杜伏威]]に合流した。隋将の[[来整]]に敗れて海陵(現在の[[江蘇省]][[泰州]])に逃れ、[[将軍]]を自称した。大業11年([[615年]])に楚王を僭称した。
 
大業14年([[618年]])に[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺した後、[[揚州|江都]]太守の[[陳稜]]が江都を守っていた。李子通が江都を攻撃したため、追いつめられた陳稜は[[沈法興]]と[[杜伏威]]に救援を求めた。李子通の部下の[[毛文深]]が沈法興と杜伏威のあいだを離間し、2勢力が牽制しあっている隙に、李子通は江都を奪取した。皇泰2年([[619年]]、江都で皇帝を称し、国号を'''呉'''、元号を[[明政]]と定めた。[[丹楊]]に拠った[[楽伯通]]を降して、尚書左僕射に任じた。また沈法興を破って晋陵を奪い、[[李百薬]]をはじめとした江南の[[士大夫|士人]]の多くを帰順させた。
 
しかし間もなく杜伏威の部下である[[輔公セキ|輔公祏]]に破れ、江都を捨て長江を渡り余杭(現在の[[杭州市|杭州]])へと逃れ再起を図った。[[621年]]に再度杜伏威に敗れると、楽伯通とともに[[長安]]に連行された。高祖[[李淵]]は邸と畑を与えて厚遇したが、[[622年]]に楽伯通と語らって乱を図り、藍田で捕らえられて処刑された。
 
しかし間もなく杜伏威の部下である[[輔公セキ|輔公祏]]に破れ、江都を捨て長江を渡り余杭(現在の[[杭州市|杭州]])へと逃れ再起を図った。明政3年([[621年]]に再度杜伏威に敗れると、楽伯通とともに[[長安]]に連行された。高祖[[李淵]]は邸と畑を与えて厚遇したが、[[武徳]]5年([[622年]]に楽伯通と語らって乱を図ったため、藍田で捕らえられて処刑された。
 
== 伝記資料 ==
35行目:
* 『[[新唐書]]』巻八十七 列伝第十二「李子通伝」
 
{{DEFAULTSORT:り しつう}}
[[Category:中国の皇帝]]
[[Category:中国の僭主]]
[[Category:隋代の人物]]
[[Category:唐代の人物]]
[[Category:6世紀生]]
[[Category:622年没]]