「アメリカ合衆国の鉄道史」の版間の差分

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セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道の組み合わせ以外にも、大陸横断鉄道は建設された。アメリカ国内で最北部の[[カナダ]]との国境に近い地帯を走るのは、[[ノーザン・パシフィック鉄道]]と[[グレート・ノーザン鉄道]]である。政府ももともと、中央ルート以外にも鉄道が必要であると考えていたため、リンカーン大統領の署名で1864年7月に北部ルートの鉄道建設を支援する法律が制定され、まずノーザン・パシフィック鉄道が発足することになった。これには当初鉄道債の発行権限が与えられていなかったが、政府の支援なしでは建設が進まないことが明らかとなったため後に鉄道債の発行が認められた。1870年に[[ミネソタ州]][[ダルース (ミネソタ州)|ダルース]]で東から西へ向けて起工され、また3年後に[[ワシントン準州]]{{仮リンク|カラマ (ワシントン州)|en|Kalama, Washington|label=カラマ}}で西から東へ向けても起工された。しかし{{仮リンク|1873年恐慌|en|Panic of 1873}}により会社は行き詰まり、[[フレデリック・ビリングス]]や{{仮リンク|ヘンリー・ヴィラード|en|Henry Villard}}の働きにより1878年に再生して、1883年9月8日に[[モンタナ準州]]{{仮リンク|ゴールド・クリーク|en|Gold Creek (Montana)}}で東西のレールがつながった<ref name = "tatc_pp55-56" /><ref name = "鉄道史_p76" /><ref name = "生成_pp173-174" />。
 
グレート・ノーザン鉄道は、「エンパイア・ビルダー」(帝国建設者)として知られる[[ジェームズ・ジェローム・ヒル]]によって建設が進められた鉄道で、1873年恐慌の機会にセントポール・アンド・パシフィック鉄道を買収したところから始まった。[[ロッキー山脈]]を越えるために、他の鉄道の通過する峠より標高の低い{{仮リンク|マリアス峠|en|Marias Pass}}を見つけ出すなどして西へ建設を進め、1890年にはグレート・ノーザン鉄道に改称して、1893年1月6日にワシントン州{{仮リンク|シーニック・ホット・スプリングス|en|Scenic Hot Springs|label=シーニック}}) で線路がつながった。ヒルは後にノーザン・パシフィック鉄道も傘下に収めた。またシカゴや[[デンバー]]への路線を持つ[[シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道]]と連絡して、南部の綿や中西部の小麦、東部の鉄鋼などを運び、[[日本郵船]]と提携してアジアへ輸出するルートを形成した<ref name = "tatc_pp56-58" />。
 
[[ファイル:Santa Fe Route Map 1891.jpg|thumb|right|アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の路線網]]
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これに続いてヴァンダービルトは、ニューヨーク・セントラル鉄道のライバルとなるエリー鉄道の買収を試みた。しかしエリー鉄道の経営陣はこれに気づき、[[ジェイ・グールド]]などと組んで対抗した。ヴァンダービルトはエリー鉄道の株式を市場で買い占めたが、グールドらは違法に株式の増刷を繰り返し、ヴァンダービルトがいくら株を買っても買い占めを完了できない状態となった。この件も訴訟に持ち込まれたが、グールドらは議員や法曹関係者にまで賄賂をばら撒くことで逃げ切りを図り、結局ヴァンダービルトが買い占めに使った金額の一部を返却することで和解した。これにより、エリー鉄道は独立を保つことに成功した<ref name = "tatc_p77" />。
 
ヴァンダービルトやグールドなどの鉄道経営者は全盛を誇り、自社の鉄道路線を豪華な[[プライベートカー]]に乗って移動した。グールドは、自分にぴったりの牛乳を出すという乳牛を、専用の荷物車に載せて連れて旅行したほどであった。ヴァンダービルトの個人資産はこの時代最大とされる7500万ドルに達していたとされる。この資産はニューヨーク・セントラル鉄道と共に息子の{{仮リンク|[[ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト|en|William Henry Vanderbilt}}]]へと受け継がれた<ref name = "tatc_p78" />。
 
こうした鉄道会社間の手段を選ばない激しい競争は社会的に問題になるとともに、{{仮リンク|1893年恐慌|en|Panic of 1893}}のような機会に際しては鉄道会社に破滅的な結末をもたらすことになった。このため鉄道会社間の利害調整を図る動きが見られるようになり、[[ジョン・モルガン]]ら金融資本によって鉄道会社への資本参加、役員の派遣、協定の締結などを通じて鉄道業の再編成が進められていった<ref name = "展開_pp31-44" />。鉄道会社自体の合併(コンソリデーション)も進み、1900年にはアメリカの主要な鉄道網は10大鉄道にほぼ集約された。北東部に路線網を持つニューヨーク・セントラル鉄道、ペンシルバニア鉄道、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、ワシントン以南の南部に路線を持つ[[サザン鉄道 (アメリカ)|サザン鉄道]]、シカゴからニューオーリンズまでの南北に路線を持つイリノイ・セントラル鉄道、そして大陸横断鉄道となるノーザン・パシフィック鉄道、グレート・ノーザン鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道、サザン・パシフィック鉄道の10社である。これ以外の会社は地方の支線などを受け持ち、大鉄道へと連絡することで輸送を行っていた<ref name = "鉄道史_pp97-101" />。これらの鉄道の複数を所有する人物や企業グループもあり、7つの「鉄道帝国」がアメリカの鉄道網のおよそ半分を掌握していた。この鉄道網の形態は、おおむね1950年代まで維持された<ref name = "tatc_p98" />。