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五等戸制実施のための帳簿が'''五等丁産簿'''(五等版簿)である。郷村の耆長・戸長・里長が各主戸の丁口と財産(田地)を記録し、財産の額に応じて五等に区分し、五等丁産簿を作成する。実際には田地のみが基準とされ、丁口は記載されなかった。田地の地力とは関係なく、その面積のみが記録された。<br/>
上等戸(上戸)は地主層で、官戸・形勢戸がこれに含まれる。上等には100畝以上の土地を所有する者もあり、非常に広い土地を所有した。彼らは租税の運搬等の[[職役]]を負担させられたが、その負担は大変重いものであり、破産する者が多かった。中等戸(中戸)は30~50畝程度を所有していた自営農民である。下等戸(下戸)は非常にわずかな土地しか所有していない自作農ないし自小作農で、貧困な生活を送っていた。五等戸のうち、多くの部分は下等戸で占められ、上等戸の数は少なかった。全く土地を持たず、地主の田地を耕作する戸は客戸とされ、五等戸のわくから排除されていた。<br/>
坊郭(都市部)ではこのような制度は行われていなかったが、[[募役法]]が実施されてからは坊郭の住民から免役銭を徴収することになり、主戸を把握する必要が生じ、'''十等戸制'''が行われた。郷村の主戸が田地を区分基準とするのに対し、坊郭の主戸は家屋を基準として区分され、その額に応じて免役銭の供出を負担した。<br/>
なお、[[元 (王朝)|元]]代になると再び九等戸制が行われた。