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'''守護'''(しゅご)は、[[日本]]の[[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]が置いた[[武家]]の職制で、[[令制国|国]]単位で設置された軍事指揮官・行政官である。[[令外官]]である[[追捕使]]が守護の原型であって、[[後白河天皇|後白河上法皇]]が鎌倉殿へ[[源頼朝]]に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の[[地頭]]の監督であった。[[鎌倉時代]]は'''守護人奉行'''(しゅごにんぶぎょう)といい、[[室町時代]]には'''守護職'''(しゅごしき)といった。
制度としては[[室町幕府]]滅亡後、[[織豊時代|織豊政権]]成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。
[[平安時代]]後期において、国内の[[治安]]維持などのために、[[国司]]が有力な在地[[武士]]を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。
鎌倉期の守護の初見は、[[1180年]]([[治承]]4)、[[源頼朝]]が挙兵し、[[鎌倉]]へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされている。同年104)10月の[[富士川の戦い]]の直後に、[[源頼朝]]が[[甲斐源氏]]の[[武田信義]]を[[駿河国|駿河]]守護人、同じく甲斐源氏の[[安田義定]]を[[遠江国|遠江]]守護人に任じたとする『[[吾妻鏡]]』10月21日条である。この段階では頼朝の勢力は足柄以西には及んでいないため編者による曲筆と思われるが、頼朝政権の勢力圏である関東南部によは早期に設置されていたと見られる<ref>[[1209年]](承元3)に守護設置の初例職務緩怠が問題と見なり、幕府は調査のため鎌倉近国の守護に補任下文の提出を命じた。この際、[[千葉成胤]]は祖父の常胤、[[三浦義村]]は父の義澄が与えられた頼朝の下文を提出しており、[[千葉常胤]]と[[三浦義澄]]が頼朝により下総守護・相模守護に任じられたことがうかがえる(『吾妻鏡』承元3年11月20日、12月15日条)。『[[源平盛衰記]]』には富士川の戦いの後に、広常と常胤が上総・下総を頼朝から賜ったとする記述があり、[[上総広常]]も上総守護に任じられていたと推測される。</ref>。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護人の設置は東国諸国から西国へと拡がっ大していった。当時の守護人は、'''[[在庁官人惣追捕使]]らを指揮'''(そうついぶして)とも呼ばれ、国内の治安維持・民政にあたり、兵粮徴発や兵士動員などを主な任務としていたが、。[[1185年梶原景時]](と[[文治土肥実平]]1)は[[播磨国|播磨]]・[[美作国|美作]]・[[備前国|備前]]・[[備中国|備中]]・[[備後国|備後]]5ヶ国の惣追捕使に補任され(『吾妻鏡』元暦元年2月18日条)、[[源範頼]]軍と共に平氏政権追討に参加した。[[1185年]](元暦2)に平氏が滅亡して追討が終了すると、朝廷との円滑な関係を構築するため、頼朝政権は独自[[後白河天皇|後白河法皇]]に設置した諸国守護人惣追捕使の停止を一旦廃止す奏上していることとした(『[[百錬抄]]』6月19日条)。
同年11月、[[北条時政]]の奏請により、[[源義経]]・[[源行家]]の追討を目的として、頼朝の義父である[[北条時政]]が上京し、後白河側と交渉した結果、行家五畿・義経追討のため、山陰・山陽・南海・西海諸国に'''[[惣追捕使]]'''(そうついぶし)・'''[[国地頭]]'''(くにじとう)を設置することが勅許された([[文治の勅許]])。頼朝政権=鎌倉幕府国地頭には、[[荘園]]・[[国衙領]]の田1段からの段別五升の兵粮米5升をの徴収する・田地の知行権利と、・国衙内武士の在庁官人を指揮する動員権利など強大な権限が認め与えられたが、こ荘園領主の反発を受けて翌年3月には停止され、時政は軍事・検断関係を執行する職務としてする惣追捕使・国の地頭位のみ保持した(『吾妻鏡』3月1日、2日、7日条)。やが置かて行家や義経与党が次々に討たれたのである。ことから、6月には畿内近国における惣追捕使が停止された(『吾妻鏡』6月21日条)。[[朝廷]]は惣追捕使によついて「世間落居せざるの間」(『吾妻鏡』3月7日条)と留保条件を付けており鎌倉、この時期の守護・地頭制度が本格的は戦時や緊急時に始まおけるこ臨時の軍事指揮官で、平時に戻れば停止されるのが当然ととないう認識があったと推察される。頼朝の諸国守護権が公式に認められた1191年(建久2)3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国ごとに設置する職をは守護、荘園・国衙領に設置する職をは地頭として区別され始めたのは、[[1190年]]前後とされてい鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。だが、当初の頼朝政権の実質的支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、[[畿内]]以西の地域では[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]を中心とした[[朝廷]]や寺社の抵抗勢力が根強く、後鳥羽天上皇(退位後は[[院政]]を行う)の命令によってで守護職の廃が停止が命じらされたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の[[大内惟義]]([[平賀朝雅]]の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、[[承久の乱]]以後のことである。
その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された[[御成敗式目]]において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である[[大犯三ヶ条]]の検断(御家人の義務である[[鎌倉]]・[[京都]]での[[大番役]]の催促、[[謀反]]人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、[[国司]]の職権である[[行政]]への関与や[[国衙領]]の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を[[被官]](家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。
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