「スタニスワフ・コストカ・ポトツキ」の版間の差分

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ポトツキは1780年に[[ローマ]]を訪れた際、画家[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]に肖像画を描かせた。彼は兄と同じく[[ワルシャワ]]の[[貴族学院]]を卒業し、後に[[ヴィラヌフ]]でポーランドの文学と芸術を学んだ。ポトツキは1781年から1784年まで王冠領[[ポトストリ|副大膳官]]を、1792年より王冠領陸軍中将を務め、また[[4年議会]]においても[[ルブリン]]選出代議員として出席し、「[[愛国派]]」の指導者の一人として活動した。中将として[[5月3日憲法]]を守る「護憲戦争」であった[[ロシア・ポーランド戦争 (1792年)|ロシア・ポーランド戦争]]にも参加したが、共和国側が敗れると国外に亡命し、1797年に帰国した。
 
ポトツキは1800年、「[[ワルシャワ科学友の会|科学友の会]]」の共同設立者となった。1807年に[[ナポレオン・ボナパルト]]によって[[ワルシャワ公国]]が建国されると、ポトツキは統治委員会の委員の一人となり、教育部門(1810年に国民教育委員会に昇格)の責任者(文部大臣)に任じられ、初等教育の充実に力をそそいだ。1809年には、彼は国家評議会および大臣評議会の議長(事実上の宰相)となった。公国が消滅して[[ポーランド会議王国]]が成立した後も、1818年より1820年まで[[ポーランド共和国上院|元老院]]議長を務めたが、[[政教分離]]主義を主張した際に保守派と教会にうとまれて罷免された。
 
ポトツキは若い頃に[[イタリア]]で古代遺跡の発掘活動にいそしんでおり、1779年には[[ラウレントゥム]]で、1785年から1786年までは[[ノーリ]]で発掘に従事した。彼はまた芸術、特に絵画や挿絵つきのアンティーク陶磁器の収集で知られた。ポトツキのコレクションは1805年に[[ヴィラヌフ]]で公開されたが、これはポーランドにおける初期の美術館の一つであった。ポトツキは元老院議長職を追われた翌年の1821年9月14日に死去し、ヴィラヌフの教会に埋葬された。