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'''水野 年方'''(みずの としかた、[[慶応]]2年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]
== 来歴 ==
[[File:Weihaiwei surrender.jpg|300px|right|thumb|[[日清戦争]]、[[威海衛の戦い]]で、日本軍に降伏する清軍の将兵を描いた浮世絵]]
[[月岡芳年]]の門人。元の姓は野中、通称は粂次郎または粂三郎。 翁斎、蕉雪と号す。<!--江戸、[[神田明神|神田神社]]の氏子内・-->[[神田紺屋町]]の左官職の家に生れ、水野家の養子となった。[[明治]]13年([[1880年]])、14歳で[[月岡芳年]]に入門し[[浮世絵]]を学んだが、その後一時[[山田柳塘]]に[[陶器]]画を学び、薩摩陶器画工場神村方の職工長となっている。16歳のとき父を亡くし、陶器の下絵やビラ絵を描いて自立している。明治19年([[1886年]])20歳のとき改めて芳年に師事し、芳年門下四天王の中でも筆頭と評された。23歳か24歳の頃には[[日本絵画協会|日本青年絵画協会]]に出品して認められている。また[[柴田芳洲]]に[[南画]]を学
明治6年([[1873年]])頃から[[美人画]]を描き、明治20年([[1887年]])年頃からは『[[やまと新聞]]』に[[挿絵]]を描いて名を上げる。明治28年(1895年)創刊の『[[文芸倶楽部]]』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、[[尾形月耕]]と並ぶ人気挿絵画家となる。
反面、[[歴史画]]も好み、また、。[[日本美術協会]]、明治31年([[1898年]])の日本画会結成に参加 門下から[[鏑木清方]]、[[池田輝方]]、[[榊原蕉園]]らの美人画家の他、[[大野静方]]、[[荒井寛方]]らの画家が輩出したが、年方自身は浮世絵派出身なりの[[武者絵]]などを手がけ、歴史人物画家として活動していた。また妻の[[水野秀方]]も年方に師事し、日本画家として活躍している。
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== 参考文献 ==
<!--* 浮世絵 [[藤懸静也]]、[[雄山閣]]、1924年-->
* [[藤懸静也
* [[吉田漱
* 稲垣進一編
* 山田菜々子 『木版口絵総覧 --明治・大正期の文学作品を中心として』 [[文生書院]]、2005年、150-161頁。ISBN 978-4-89253-300-6
== 関連項目 ==
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