「耶律阿保機」の版間の差分

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|在位期間 =[[907年]][[2月27日]] - [[926年]][[9月6日]]
|都城 =
|諱 =耶律阿保機<br/>劉億(漢名)
|字 =阿保機
|小字 =啜里只
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|廟号 =太祖
|生年 =[[872年]]
|没年 =[[天顕]]元年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<br>([[926年]][[9月6日]]
|父 =[[耶律撒剌的]]
|母 =[[宣簡蕭皇后]]
|皇后 =[[述律皇后|淳欽述律皇后]]
|陵墓 =祖陵
|年号 =[[神冊]] : [[916年]] - [[922年]] <br/>[[天賛]] : [[922年]] - [[926年]] <br/>[[天顕]] : [[926年]] - [[926年]]
|注釈 =
}}
'''耶律 阿保機'''(やりつ あぼき、Yelü Abaoji, [[872年]] - [[926年]][[9月6日]])Abaoji)は、[[遼|契丹]](キタイ)帝国(漢風国号として[[遼]]も名乗った)の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。
 
== ==
=== 年表出生 ===
耶律阿保機は、契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート<!--Yalut-->)の迭刺(てつら)部出身で、[[耶律撒剌的]]と[[宣簡蕭皇后|宣簡皇后蕭氏]]との間の長子として[[872年]]に生まれ。耶律氏は発音によっては移刺(イラ)とも呼ばれる。また'''天皇帝'''、'''天皇王'''の称号も持っていた。
 
伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。
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初めは遥輦氏の痕徳菫[[ハーン|可汗]]に仕えていたが、[[906年]]に痕徳菫可汗が没すると、[[907年]][[2月27日]]に可汗に即位(第1次即位)、室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の[[蕭轄剌]]、南宰相の[[耶律欧里思]]が群臣と共に天皇帝号を奉じて皇帝となる。[[911年]]から諸弟の反乱が続発するが、剌葛、迭剌、寅底石、安端などを征伐してその与党を処刑した。
 
=== 治世契丹の建国 ===
[[916年]][[3月17日]]の第2次即位において国号をキタイ=契丹(漢風国号「遼」も称するようになるのは第2代[[耶律堯骨|太宗]]の時)とし、[[元号]]を[[神冊]]と定め、キタイ人王朝を建国した。耶律阿保機太祖は北宰相に[[蕭実鲁]]、北院夷離薫に[[斜涅赤]]、南府宰相に[[耶律苏]]、南院夷離薫に[[耶律迭里]]を任じ、国家運営を進めていく事になる。
 
耶律阿保機は西の[[突厥]]・[[吐谷渾|吐渾]]・[[小蕃]]・[[陽卜]]・[[タングート]]・[[ウイグル]]・[[沙陀族|沙陀]]諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長子[[耶律突欲|突欲]](劉倍)を封じて[[東丹国]]を作った。[[渤海 (国)|渤海]]との戦役からの帰路の途中で病没した。
 
耶律阿保機は、遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制、遊牧所領内にも多くの都市を建設するなど、遊牧国家に農耕国家のシステム機構を取り入れ、[[匈奴]]以来の遊牧国家のシステム機構をより強固なものとした。また、[[920年]]には大小2種の[[契丹文字]]を制定した。
 
== 年表 ==
{{節stub}}
 
== 后妃 ==
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*『遼史』巻2 本紀第2
 
{{遼の皇帝|916年 - 926年|[[遼|契丹]]|初代}}
{{Chinese-history-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:やりつ あほき}}
[[Category:耶律氏|あほき]]
[[Category:遼の皇帝|あほき]]
[[Category:872年生]]