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(昭和20年)には学校連合訓練所が[[三重海軍航空隊]]の[[特別攻撃隊|特攻隊]]訓練に使われるなど[[軍事]]色が強まった。
 
終戦後の1945年11月には「[[戦後開拓|緊急開拓事業実施要領]]」に基づき、約170世帯が入植し、自給的農業に従事したが、厳しい[[気候]]条件と恵まれない[[土壌]]のため、開拓農家は約2年で50世帯まで減少した。<!--以下、『中部Ⅱ』29ページより-->そこで、7つに分かれていた開拓組合は[[1948年]](昭和23年)に野辺山開拓農業協同組合に一本化された。[[1949年]](昭和24年)の青果物統制の廃止、[[1950年]](昭和25年)の[[朝鮮特需]]の後押しもあり、商業的農業が復興を果たし、[[ダイコン]]の栽培が増加した。[[野菜]]の栽培に使う[[堆肥]]を得るため、[[1953年]](昭和28年)に[[ニュージーランド]]から14頭の[[ジャージー種]]([[乳牛]])が輸入された。同年、振興対策事業が始まり、[[野辺山駅]]前の46
戸が計画的に移転し、[[散村]]景観を呈するようになった。[[1960年代]]後半より[[牛乳]]価格の下落により[[酪農]]は衰退するが、野菜栽培は増加を続け、野辺山は日本を代表する高原野菜産地となった。
 
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[[1995年]](平成7年)の統計では、南牧村の経営[[耕地]]面積1,565haのうち94%が[[畑]]であり、大規模農家(経営面積3ha以上の農家)の割合は45.3%に上る<ref name="中部29">丸山(2000):29ページ</ref>。また、年間の農産物販売金額が1000万円を超す農家は55.9%に達する<ref name="中部29"/>。野辺山が高原野菜栽培地域として発達した要因として、丸山(2000)は以下の7点を指摘している<ref name="中部30">丸山(2000):30ページ</ref>。
#[[戦後開拓|開拓事業]]や地元農家の増反により経営規模が大きくできたこと。
#[[混合農業]]の実行。
#[[戦後開拓#時期区分|振興対策事業]]により、基盤整備が行われたこと。
#機械化の推進と[[雇用]][[労働力]]の確保。
#国や長野県による産地保護。