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'''千野 栄一'''(ちの えいいち、[[1932年]][[2月7日]] - [[2002年]][[3月19日]])は、[[日本]]の[[言語学者]]。[[東京外国語大学]]名誉教授、[[和光大学]]学長[[言語学]]、および[[チェコ語]]を中心としたスラブ語学が専門。
{{出典の明記|date=2012年9月27日 (木) 05:55 (UTC)}}
'''千野 栄一'''(ちの えいいち、[[1932年]][[2月7日]] - [[2002年]][[3月19日]])は、[[日本]]の[[言語学者]]。[[東京外国語大学]]名誉教授。言語学、および[[チェコ語]]を中心としたスラブ語学が専門。
 
==略歴==
[[東京府]][[豊多摩郡]][[渋谷町]](現・[[東京都]][[渋谷区]])栄通1丁目生まれ。[[1948年]]、[[府立高等学校 (旧制)|東京都立高校(旧制)]]尋常科(現[[東京都立桜修館中等教育学校]])修了。当時からの友人に地理学者[[江波戸昭]]がいる。
 
[[1949年]]、東京都立高校高等科(現[[首都大学東京]])修了。[[1955年]]、[[東京外国語大学]]第四部([[ロシア語]])卒業。[[1958年]]、[[東京大学文学部]]言語学専攻卒業。同年、[[チェコスロヴァキア]]政府奨学生として[[プラハ]]の[[カレル大学]]に入学。[[ヨーゼフ・クルツ]]のもとで[[古代教会スラヴ語]]ならびに[[プラーグ学派]]を研究すると共に、[[1959年]]から同大学日本語科講師を務める([[1967年]]まで)
 
同年、[[チェコスロヴァキア]]政府奨学生として[[プラハ]]の[[カレル大学]]に入学。[[ヨーゼフ・クルツ]]のもとで[[古代教会スラヴ語]]ならびに[[プラーグ学派]]を研究すると共に、[[1959年]]から同大学日本語科講師を務める([[1967年]]まで)。[[1964年]]、カレル大学文学部スラヴ語科修了。[[1967年]]12月に日本へ帰国。
[[1964年]]、カレル大学文学部スラヴ語科修了。[[1967年]]12月に日本へ帰国。[[1969年]]、[[東京教育大学]][[文学部]]助教授着任。[[1976年]]、東京外国語大学外国語学部助教授。[[1977年]]、同教授。
 
[[1964年]]、カレル大学文学部スラヴ語科修了。[[1967年]]12月に日本へ帰国。[[1969年]]、[[東京教育大学]][[文学部]]助教授着任。[[1976年]]、東京外国語大学外国語学部助教授。[[1977年]]、同教授。
 
[[1988年]]、チェコスロヴァキア国際交流協会金賞受賞。[[1989年]]、日本チャペック兄弟協会を設立、会長となる。[[1991年]]、ポーランド語科およびチェコ語科の新設に伴い、東京外国語大学ロシア・東欧語学科教授着任。
 
[[1992年]]12月、『言語学大辞典』の績により第46回[[毎日出版文化賞]]特別賞受賞。[[1993年]]、東京外国語大学名誉教授。[[1994年]]、同大学を定年退官。同年、[[和光大学]]人文学部文学科教授着任。同年11月、東京外国語大学ポーランド語科およびチェコ語科の創設の功績により、[[原卓也]]と共にポーランド功労十字章受章。[[1997年]]、和光大学学長就任([[2003年]]まで)。
 
[[2000年]]9月、日本におけるチェコ語の普及ならびにチェコ文学・チェコ文化の紹介によりチェコの文化功労賞を受ける。
 
[[20002002年]]9月、日本におけるチェコ語の普及ならびにチェコ文学・チェコ文化の紹介によりチェコの文化功労賞を受ける。和光大学学長在任中、2002年3月19日、[[国立病院]][[東京医療センター]]で死去。
 
元妻の[[千野ズデンカ]]、再婚相手の[[保川亜矢子]]([[千野亜矢子]])、娘の[[千野花江]]は共にチェコ語講師。
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* [[アヴィグドル・ダガン]]『宮廷の道化師たち』(集英社, 2001年)
* [[ペトル・ヤルホフスキー]]『この素晴らしき世界』(集英社, 2002年)
 
==参考文献==
*千野栄一『言語学フォーエバー』(大修館書店, 2002年)
**死後に出版されたエッセイ集。『言語学の散歩』、『言語学のたのしみ』、『注文の多い言語学』からの再録と書き下ろし、略年譜、主要著作リストを収録。
 
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